2024.04.08
時間が不可逆的であるというのは嘘だ。人間は誰しも、時間のある一点に閉じ込められ、そこから動くことが出来ない。
私の閉ざされた時間――春の昼下がり、ゆったりとした日差しにまどろみながらソファに横わたって漫画を読む、十歳の、まだ受験も離別も暴力も知らぬ、まっさらな私。
振り返れば、私の求めるものは何一つとして届かぬものがなかった。
人を騙すことが好きだった。人に嘘をつき、自在に涙を流し、人に媚びうるのが好きだった。被害者になる術、そういうものを先天的に獲得していた。私が蔑む者は蔑むように仕向ける。私が拒む者は皆が拒むようにする。本当は私に否があろうとも、あたかも相手がすべての責任を負うかのように流布する。嘘を練り込み、情報を限定し、何もかも私の都合の良いように伝える。そうすれば相手は私を可哀想な者と思う。あるいは、申し訳なく思う。それで譲歩を引き出す。
そういうことが本当に好きだったし、現に、得意だった。
そのおかげで、私は欲するものを何でも手に入れた。学歴も手に入れた。職歴も手に入れた。物品も手に入れた。手に入らぬものは届かぬものとして、早々に受け入れた。人を騙し、己を騙し、晩餐は並ぶ。当然だ。己さえも騙してしまえば、ウジ湧いた腐れ水でさえ極上のヴィシソワーズとなるのだから。
はい、おじさま! はい、おかあさま! わたしはみんなとおんなじように、たくさんべんきょうして、いいだいがくにはいって、いいかいしゃにはいって、しゅっせしたいとおもいます!
私の家族は本気でそれを信じていたし、実際みな優秀な者たちばかりであった。副社長。本部長。超一流企業。三十歳にして年収一千万超。
決して一番星になれない一等星ども。
小さい頃から騙さざるを得なかった、などと言わない。私は自らの意志で私を騙した。
もう飽きてしまった。そんな人生に。
創作者になりたいと願ったこともある。しかし筆が進むことは一向にない。なぜか。
創作なんて興味はない。嘘だ。創作は好きだ。好きになった。しかし、今でも白紙は美しい調和を保ち続ける。創作ではない。私が心底願ったもの。
破滅。
このまま生きていれば、なんの不満もなく死に遂せただろう。一流の学歴を以て優良企業で活躍する人材。日本の99%は届かぬ栄光。私の翼は鋼で出来ていた。その人生に飽きた。鋼に押し上げられた世界は、もはや人間にほど遠い。だからこそ私は、翼を破り捨てた。
はじめから創作が向かないことは知っている。芸術家ではない。私はどこまでも現実主義者で、ペシミストで、そして嘘吐きだ。嘘吐きにアートは向かない。ヒトラー少年が示したように。
故に私は選んだ。最初から壊れてしまおうと。
私は嘘だけで出来ている。嘘だけの人間は嘘の他に何も生み出さない。故に破滅する。恋も愛も友も無く。
すべてを得たように思えて私は、何も得ていなかった。すべては絶たれた。嘘ゆえに。自らをも騙し遂せた、青春の犠牲として。
三年前の私よ。君は破滅する。足掻いたところで、君は春のソファの涼しさから、決して逃れられない。
あまりに短い人生だった。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
裁きは神々に委ねる。私は自殺を選択しない。餓死にせよ圧死にせよ、その結末は神々によって定められなければならない。私は自殺論を読んだ。デュルケームの説いた三形態によって死ぬことはない。
死を恐れるから私は現状に拘泥する。しかし飽いていることは死と等しい。死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。