2021.09.14
- なぜ日によって筆の進み具合に差が生まれるのか?
端的に言って、ストレスの有無、である。
基本的に私の創作の根源とは、「憎悪」である。ストレスを受けることにより、その反動として、一種の憎悪が生まれる。例えば、睡眠不足によって引き起こされる情緒の振れ幅、労働によって引き起こされる吐き気、そして就職活動によって引き起こされる社会に対する疑義、など。それを増幅させ、作品にこめることで、私は創作を為している。
しかし、現状はどうであろうか。特にストレスを与える要因もない。というか、私が排除した。家ですら、稀に親との軋轢はあるものの、基本的に室内ですべてが完結する素晴らしい環境を構築した。その結果として、ストレスが失われた。
私のような、元々情熱と言った類のものを持ち合わせない人間にとって、ストレスとは原動力そのものである。それを取り除くことは、つまり、日常における活動の燃料を抜き去るに等しい。故に、作品にのめり込むことができない。作品を真の意味で愛せなくなってしまう。これが私の根幹である、と思われる。
なお、これは創作に限った話ではなく、日常生活においても同様だと考えられる。食事。筋トレ。旅行。などなど。これらの原動力は基本的にストレスであり、それがなくなって仕舞えば、生きた屍と大差なくなってしまう。
- 私は創作を行いたいのか?
では当然、このような疑問も生まれる。私は創作を行いたいのか?
答えは、言うまでもなく、イエスである。私は私の世界を脳内だけに留めたくない。故に、書きたい。それだけの話である。
- 如何にして創作に注力する体制を構築するか?
であれば、如何なるときでも、創作に取り組めるような、一種のルーティーンを構築すべきである。偶然の所業に任せていては、発生する世界のアウトプットが追いつかない。私の世界が面白いのは自明であるから、定期的に、良質な出力をすべきなのであるし、私もそれを求めている。
まず、手段として、これを書いていて思ったのだが、このようにひたすら思ったことを書き連ねることがあるのではないだろうか。私の思考は膨大なので、それをただ書き連ねていけば良い。これにより、おおよそ脳の言語を司る部分が刺激され、書きたい、という意欲が増幅されるように思われる。人間は動物なので、身体を動かしてゆけば、自然と精神も追いつくのであろう。これを毎朝行っていれば、ある程度意欲としては強まってゆくのではないか。
だが、これは根本的な解決ではない。これでは、ある程度良質なものを記すことができるであろうが、魂は内海に止まったのみである。創作とは即ち、己の魂を移植するものである。魂のない作品にも価値はあるものの、それは流行り物として、消費される。私は消費物を生産したいのではない。とこしえに精神に刻まれる、そんな作品を創りたいのである。
さて、どうすれば良いか。運動はダメであった。しないよりはマシだが、血のめぐりをいくら良くしたところで、自らの意志が追いつかなければ意味がない。
……おなかが痛くてこれ以上は厳しいので、明日までの宿題としよう。ところで私には自らを「みづから」としてしまう癖がある。こればかりはどうにも治し難い。