まどどブログ

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2021.09.18 死について① / 死への憎悪について

2021.09.18

 

  • 死への憎悪

 私は、死というものを間近に見たことがない。同世代の自殺、なんてものは噂に聞くし、親戚の葬式に行ったこともある。しかし、死の瞬間そのものをこの目で確かめたことはない。それでも、私は死に対して、明確な憎悪を抱いている。

 

  • 憎むべき死の特徴

 なぜ死は憎悪されるのか。それは、たった一つの理由から説明できると考えている。好奇心を究極まで制限する、その存在が死だから、である。

 人間を人間たらしめているもの。それは異常なまでの好奇心だと、私は考えている。自然の摂理を「神」の名の下に自らの論理の支配下へと組み込む。それを「科学」というより再現度の高い理論へと置換し、全球をすべて説明しようと企む。エベレスト、深海、南極、明らかに生存に適さないようなフロンティアすら、舐め回す。果てには、地球では飽き足らず、宇宙の世界にまで手を伸ばす。この生物の行動原理が「好奇心」でなくて一体何であろうか。

 そんな恐ろしいまでの好奇心を、死はいともたやすくねじ伏せる。宇宙に生身で投げ出されば、死ぬ。銃で撃たれれば、死ぬ。高所から落ちて地に打たれれば、死ぬ。何をせずとも、病が、あるいは老いが身体を蝕み、死ぬ。この不条理によって、我々の好奇心は著しく束縛される。

 この束縛の種類としては、二つ考えられる。一つは、直接的な行為の禁止である。簡潔に言えば、やったら死ぬことは出来ない。宇宙を生身で遊泳できれば、どれだけ楽しいであろうか。高所から落ちてゆくとき、どれほど美しい景色が拝めるであろうか。しかし、我々はそれを出来ない。死ぬからである。

 

  • 死とは無である

 ここで、一つ反論が考えられる。「死ぬのは死ぬが、出来なくはないのではないか」と。

 しかし、現に我々は出来ない。これはたった一つ理由から説明できる。死んで仕舞えば、意味がないからである。

 死とは、無である。死は、私という存在そのものを霧散させる。今確かにここにある(実際はそれも怪しいが、話がさらにややこしくなるので、ここでは単純化する)「私」という存在は、死によって消失する。少なくとも、現世からは消え失せる。死後の世界など、まやかしである。仮にあるとしても、私は「生前」を覚えていない。覚えていなければ、そこに連続性はない。連続性がないのであれば、そこに何の意味もない。再現性がないから。

 そして、我々は体験を記憶によって保存する。記憶がなければ、体験に関して論じることも、その心境を再現することも叶わない。高所から落ちたときの恐怖、絶景に対する感嘆、そして地に堕ちたときの耐え難い苦しみ。これらを記憶として貯蓄し、引き出せてようやく、その体験は体験としての意味を為す。

 しかし、死とは無である。すべてが無に帰す。その自覚すらない。私は消え失せるから。当然、記憶なんて概念も絶える。体験は、体験でなくなる。

 さて、その行為に意味はあるのであろうか。ないだろう。我々は、真の意味でメリットのないことをしない。故に、我々は死ぬとわかっている場合、好奇心を満たそうとはしない。

 

 死の問題点とは、直接的に死ぬ好奇心を殺すだけではない。もう一つは、実際、成したいことを阻害するのである。

 何らかの目的があって、この世のすべての本を読みたいという欲求があるとする。それを達成しようと、なんとか一日一冊、いや二冊読んだとしよう。しかし、到底、成し得ることではない。何故か。道半ばで死ぬから。死ぬまで、長くて百年。幼年期は難しいだろうから、九十年。合計、六万五千七百冊。この数字が多いか少ないかは人それぞれだと思うが、欲求の成就には到底足りない。この世にはそれ以上の本があるし、当然、在命中にもどんどん冊数は増えてゆく。結局、実現などあり得ない。

 そう、死はどんな好奇心にも、タイムリミットを設ける。故に我々は、そのタイムリミットに見合った好奇心の充足を目指す。学者。政治家。作家。役者。それぞれ、制限された活躍を見せる。

 さて、死さえなければ、どれほどの輝きを見せたことであろうか。

 

  • それでも世人は

 このように、私は死が私を奪うものと考え、拒絶している。しかし、世人はそうではない。

 無論、老人であればわかる。老人が死を前向きに捉えるのは、恐らく老いによって死を快く受け入れるようなプログラミングが為されているのであろう。それが動物として正しく機能している姿なのだと思う。

 しかし、私が理解できないのは、同年代ですら死を受け入れているところである。我々若者は、まだ死を考えるような段階にないはずである。それにも関わらず、死をある種当然のものとして考え、それに疑義を抱くことなど殆どない。今は楽しいだろうし、好奇心に溢れ、それを満たすだけの知恵も力もある。だがいつかは死ぬ。それを、当然のように心に抱いている。終わりがあるから楽しいのでは。何十年生きるだけでも大変なのに。などなど。

 理解できない。ずっと楽しい、ずっと好奇心と行動を共にできる、その方が、純粋に生きる姿として、ずっと喜ばしいではないか。初めから理不尽な終わりを予告された演劇など、一体誰が楽しめようか。数多ある作品の「終わり」は、あくまで時間や紙面、データ量など造り手側の都合であって、無い方がほんとうはずっと喜ばしいのである。

 このような認識の乖離の原因は、正直よくわからない。それでも言及するのであれば、自己愛の強さが少し影響しているのかな、と思う部分はある。私は自己を何よりも愛している。人間の基本的に裏切るという習性を考えれば、他者を信じるより、自己愛によって能力を高めていく方が効率的だからである。この性格の下では、他者に何かを委託するよりも、自身ですべて独占する方が安心できる。故に、死による制限というものは障壁としか思えない。しかし、人間を愛する他者は、他者の所業に信頼を置いているため、短い生を考慮した役割分担に同意できる。故に、死がそれほど不条理な存在には見えない。このようなところだろう。

 あとは、純粋に逆張りか、順張りか、という差もあるだろうか。

 

 いずれにせよ、世人が死を受け入れようと、私は構わない。私に関係はない。

 だが、私は死を受け入れない。私の中には、残り六十年程度では成し得ないことが、山積しているのである。

 

 ちなみに、もっと言えば死を受け入れるよう上手く仕組まれている人間の身体そのものが憎かったりするのだが、それに関しては別の機会に述べよう。

 また、老いと自殺についても、私は考えがある。しかし、ここで同様に論じると、テーマがブレる上に、それだけで一日を使ってしまう。後日、書き留めることとしたい。

 

 ところでルーティーンがもはや一日の主流となっているが、これは良い状況なのか?

 まあ、何も書かないよりは良いのかな。