まどどブログ

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2021.09.20 死について② / 死の卑劣さについて

2021.09.20

 

  • 人間の尊厳の源

 人間を人間たらしめるものは好奇心だと、前日の議論で述べた。では、人間が人間として最も尊重するべきものは、いったい何であろうか。それは「自律」だと、私は思う。

 人間は、理性に強力に恵まれている、おそらく唯一の種である。その理性をふんだんに活用し、自らの言動すべてを自らの意思によってコントロールすること。これが、人間にとって高貴な行為であり、人間の行動原理を正当化するものである、と考える。好奇心が人間の主ならば、自律はその右腕なのだ。

 無論、世の中には「自律」を忘れたケダモノが多く存在する。それも生き方としては良いだろう。本能に忠実に、肉の悦びを享受する。なんと愉快で、苦悩のない生き方であろうか。しかし、私はそう生きたいと思わない。人間として生まれた以上、理性に身を任せ、自律に隷属する。それが、人間としての生を最も活用する方法だと、私は思う。

 

 自分で書いていて、中世ヨーロッパの価値観が大変に強く出ているな、と思う。私はこれに完全に同意しているのだから、仕方あるまい。

 

  • 「自律」を踏み躙る本能、そして死

 しかし、本能というものは、自律を簡単に打ち破る。

 例えば、生殖本能や肉の快楽への渇望が、理性を遥かに上回るようなとき。芸能人や作家が些細な問題を起こして、人生を棒に振る、なんてニュースをよく聞く。どう考えても、理性による合理的な判断からかけ離れている。自律を失っている。これは、いわゆる自律の敗北なのだ。

 もっと身近な例で説明しよう。例えば、眠気。眠りたいと微塵も思っていないのに、睡魔が私を飲み込む。そして、いつの間にか、眠っている。気づけば夕刻。やるべきこと、山積しているタスクは翌日に持ち越し。これも、理性が本能に押し負けているのだから、自律の敗北と言えよう。このように、自律が本能に踏み躙られる、なんてことは、日々起こっている。

 その最たる例が、死である。心身の自由の利くうちに「死にたい」と思う人間は、稀であろう。大抵の人間は、元気で楽しく生活できているうちは、ずっと生きていたいと思うはずだ。それで死を選択するのは、もはや好奇心が本能に打ち勝った場合であり、高貴な選択ですらある。

 しかし、人間はずっと元気なわけではない。難病。老い。心の病巣。命を脅かす苦難が、我々を襲う。人間は壊れやすい動物で、そうなってしまうと、徐々に昨日出来たことが今日には出来なくなっていく。すると、何故だろうか。人間とは、死を受け入れていくのである。耐え難い痛み。自由の利かない身体。何も成すことのない心理状態。それらから逃れようと、死に救いを求めてしまうのである。

 

 癌で闘病している方のブログを見たことがある。初めその方は、何が何でも死ぬものか、という強い意志を持っていた。しかし、癌というものは、その治療に耐え難い苦悩を伴う。痛い。苦しい。身体が言うことを利かない。頭がぼんやりとしてくる。それを経て、その方は、徐々に弱気に、死を覚悟するかのような言葉を記すようになる。そして、亡くなった。

 私はこれを見て、激しい怒りと憎しみを抱いた。無論、死に対してである。死とは、私たちの理性をも、有無を言わさず飲み込む。そして、まるで自分の意思であるかのように、受け入れさせる。何たる卑劣か。悪魔の所業だ。私たちの行き着く先は、悪魔なのか。

 私はそれ以来、死に対する憎悪を確たるものに進化させた。

 

  • 私は死なない

 私とて、死を考えなかったわけではない。一回、汽車に飛び込もうと思ったことすらある。しかし、それもまた、死という悪魔の所業であった。私は今こうして生きていて、それに気づくことが出来た。私はあのとき死に打ち勝って、ほんとうに良かったと思う。

 無論、私は自殺を止める気など、毛頭ない。自殺とは、死を自ら作り出すという、死に対する態度としてはまだ崇高な部類だと考えているためである(これについてはまた後日述べたい)。

 しかし、私は死なない。病が巣喰い、死に「私」を奪われるまで、私は決して死なない。

 私はそれを、ここに誓う。

 

 欲を言えば、私は眠りたくない。眠るというのは、自律の敗北だから。しかし、私は睡眠が趣味と言っていいほど、好きでもある。いわゆるジレンマ、というやつだ。