まどどブログ

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2021.09.29 絵を描くことの重要性について・手段と目的について

2021.09.29

 

 おなかを壊してしまった。コーヒーと牛乳を大量に飲めば、当然そうなる。

 

  • 絵を描こうの巻

 絵を描きたい。何故か。私には、二つのパターンで内なる世界を外に出すためである。

 一つは、文字先行型。何か書きたいテーマがあって、それについてただひたすらに文字を連ねていく。例えばこれはその典型であるし、物語だとしても、イメージがまったく追いつかずにただ文字だけが前面に出ていく、ということも頻繁にある。

 もう一つは、心象先行型。頭の中に、風景とか人物像とか、そういうものが次々と湧いてきて苦しくなる。それを外に出してしまおうと、何かしらの手段で現実に移す。物語であれば、ある程度構想の進めばこうなるパターンが多いし、妄想をこよなく愛する私の日常は、大抵この苦しみに苛まれている。

 後者においては、絵、というものが重要なファクターとなってくる。文字は、どうしてもイメージの忠実な再現に支障を来す。文字と平面というのは、底の部分で異なる次元の物体である。補完はどうしても難しい。それに、知恵や知識など、読み手にある程度依存せざるを得ない。絵であれば——無論それに付随する予備知識などもあれば好ましいが——像を像として抽出できる。また、観察者の方にも、視界を通してそのまま伝わる。

 無論、私はおよそ幼い頃から文字の民である——文字の出力に物心ついた頃から慣れ親しんできたというだけで、決して「本の民」ではない。文字との間には、一定の信頼関係を有している。しかし、絵の方が、実は私の世界と妄想との出力には忠実なのだ。

 それに、前述したように、文字一辺倒の創作では、イメージが追いつかない。基本的に文学で求められているのは、イメージである。これは聖書でも、源氏物語でも、またタイタス・アンドロニカスでもなんら変わっていない。文字によって、色の洪水を起こす。私にはそれがない。私の課題はここにあると、いま強く自覚している。その意味でも、絵を嗜むのは重要ではないだろうか。

 

 ただし、私は絵心に恵まれていない。というか、そう思い込んで、努力を怠ってきた。これは、私の醜いもの嫌いに起因する。私は美しいものをこよなく畏れる。そして、醜いものを忌避する。生理的な嫌悪感すら抱く。そして、私の絵はたいてい、醜い。自らの絵に向き合うというのは、もはや拷問に近い。そのため、今までずっと、逃げてきた。

 しかし、これは創作のためである。私の人生は創作のために存在する。であれば、もはやこれから逃げることは、死に等しい。

 私はとこしえに生き長らえたい。生きるとは即ち、苦しみである。私はこの苦しみを愛し、

 

 ところで、人間は「自分に向いていない」「自分にはできない」「これが出来るのは天才だけ」という理由で大抵のものから逃げる。それは甘えではなかろうか。必要な工程や乗り越えるべき障壁の多少が存在するだけで、時間を投下すればいずれは一定のレベルに達すると私は考える。それを「自らには不可能だ」と諦めてしまうのは、時間がないから切り捨てる、ということの言い訳にしか私は思えない。無論、私もこの論理で、絵を含め数多のものから逃げてきたわけであるが。

 これについては後日、論じたい。

 

  • まず練習すべきは風景画か、人物画か

 無論、どちらも描くし、どちらも理論から学習すべきではある。しかし、まず練習すべきなのは、人物画である。何故か、私は人物に興味がないから。

 私は風景をこよなく愛する。車窓を二時間ずっと眺めていても何の苦にならないような人間である。自然とは、美そのものだから。しかし、人物に私は興味がない。そこまで見ない。故に、細部がまったくわからない。風景画であればある程度の経験で乗り切れる部分も、人物画には通用しない。手がどの長さ、とか、足がどの長さ、とか、筋肉がどうなっているか、とか、首がどういう形で胴体と接していているか、とか。私はすべて覚えがない。

 故に、私は真っ先に人物画を練習すべきなのだろうと考えている。

 

●手段と目的

 ところで、「このルーティーンに費やしている時間を創作に充てればより大量にアウトプットが生産できるのでは」と考え試してみたが、結果としては上手く行かなかった。脳の働きを活性化させるためにも、これは必要なのだ。

 ただし重要なのは、これを目的としないこと。あくまで創作のための手段であって、他に創作の糧とすべきイヴェントがある際には、これを無理に記す必要はない。例えば、旅行中、車窓の景色を犠牲にしてまで、スマホの画面に注意する必要はない。そのときは、旅行そのものを創作の糧とし、帰宅後にアウトプットすれば良い。キリスト教において律法が目的ではないように、私もルーティーンが目的とならぬよう、注意すべきなのである。

 なお、これはルーティーンに限った話ではない。

 

おわり