まどどブログ

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2021.10.02 同性愛者としての同性カップルについて

2021.10.02

 

 最近どうにも忙しい。今日など、ほんとうに無意識に数時間寝てしまっていた。いやはや、ロングスリーパーとは人生においてあまりに不利である。睡眠選択制を導入してほしい。睡眠したいときはできるけどしたくないときはしなくても何ら支障ない、的な。寝なければいずれ死を招く、というのは、ただでさえ短い人生に対してさらなる削減を求めていて、望ましいものではない。

 今日は夜遅く、もう創作することなどないのだが、文章とは時間を置けば置くほど劣化していくものであるから、久々に記したい。

 

  • 同性愛者であるのに

 私は同性愛者である。同性しか好きにならない。生殖本能としては女性に好意を抱くのが適切なのだが、どうにも女性にはあまり興味がない。無論、中学生くらいまでは自身がストレートだと信じて疑わなかったので、女性の何を好むか、というのは何となく概念として理解できる。しかし、実際に私の性的関心はそうなっていない。

 これについて、私は自分自身を「エラー」として捉えている。ネガティヴな意味を込めているのではない。生殖の必要のある動物において、生殖の見込みのない同性を好むというのは、自らの種を放棄しているに等しい。故に、純粋な意味で、自然界のエラーなのである。

 ここまでなら話は簡単である。私は同性愛者。ただそれだけ。事実を述べたに過ぎない。以前の私であれば、ここで「受け入れてくれないことへの不満」とか、「カミングアウトへの苦悩」とか、ありきたりな愚痴を書き連ねていただろう。今の私はそれほど弱くない。

 

 ただ、目下私の中で障壁としてあるのが、私は同性カップルに対して嫌悪感を抱く、ということだ。例えば街中で、明らかに同性カップルと思しき男性二人組を見たとしよう。私は何を思うか。むさ苦しい。そう思う。私は同性愛者でありながら、同性カップルを見たくない。ちなみに、これはゲイだけの話ではない。私はアベック以外のすべてに対して、何らかの否定的感情を抱く。

 この理由は単純で、男女カップルが形として最も美しいからである。神が男女を創った、ということでもないが、明らかに人間は男女二人組の方が造形として美しい。私が世間一般の常識をそのまま受け入れているのか、それとも先天的なものなのかはわからないが、とにかく、男女カップルが最も自然であり、美しい。それ以外は、どうしても自然から離れてしまう。

 ここで注意したいのは、私は決して差別的感情を抱いているわけではない、ということだ。差別とは、論理を伴う。私は論理の面で、私を含めセクシャルマイノリティ自体に何ら否定的な感情を抱いているわけではない。ただ事実として性的指向があり、それ以上でもそれ以下でもない。差別などそもそもお門違いというか、事実に対して妄言を吐いているのと等しい、とすら思う。無論、優遇もあってはならない。

 しかし、生理的嫌悪感を一体どのように制御すれば良いのか。これは魂のものであり、論理よりも遥かに素早く浮かび上がるものだ。それを抑えられるものはない。異性愛者から「生理的に無理」という意見がある、というのはよく聞くが、それ自体を非難すべきではない。生理的嫌悪感を如何に理性で懐柔するか。人間として重要なのはこれであると私は考えるし、少なくとも私はそのように努めている。

 

  • 何が困るのか

 この点で、私はとても助かっている。私がいくら誰かを愛でようとも、私は私自身を見ることができない。私は同性愛者として、同性のかわいい姿をただ拝んでいられる。そこにむさ苦しさは感知されない。目が頭上についていなくて良かった、と心底思っている。

 しかし、不安なこともある。それは、果たして無事恋人が出来たときに、写真を撮られるだろうか、というものだ。私はかわいい人を相手に選ぶだろうから、相手の写真ばかりを撮ることになろう。その分は問題ない。だが、二人で写真を撮ろう、となり、撮って、二人して映った写真を見る。そのとき、私は私たち自身に対して嫌悪感を抱かないだろうか。これがとても怖い。

 私は飽き性である。一度飽きて仕舞えば、大抵のことがない限り、同じ事物に興味を抱くことがない。写真を見て、嫌悪感を抱いたとして。私はその人、いやその人との関係性に、これまでと同様の情熱を注ぐことが出来るのか。そう思うと、写真など果たして撮れようか。

 きっと大丈夫。私はそう思いたい。

 

 ところで、この話について、取らぬ狸の皮算用、という言葉が適切だろう。