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2021.10.05 「自他の分別」という不干渉について

2021.10.05

 

 気づけば十月も既に五日目を数えている。私の中の感覚では、早起きした日ほど時間の流れは早く、ゆっくり休んだ日は一日の流れをゆっくり感じる。ここ数日は前者であったので、あっという間に一日が終わってしまった。悲しい。

 ところで、このブログではセンシティヴな話題も多い。読者など日に一人いるかいないか、という、無人駅同然の人数なので、気にする必要もないが、インターネットの世界とは何が起こるかわからない。ここで今一度、私のスタンスを明確にしておきたい。

 

  • 「自他の分別」という不干渉について

 このブログは私の思考を、ただ私のためだけに記しているものである。故に、読者がどう思おうと、私にとって関係ない。それは貴方の感情であって、私のそれではない。このブログだけではない。私の価値観全般は、この考えに立脚している。

 私の人生における一つの戒律として、「自他の分別」がある。簡単に言えば、自分は自分で他人は他人、互いにできるだけ不干渉であるべき、というものである。

 他者というのは、どこまで行っても他者であり、私という存在と同等に知覚できるものではない。その人にはその人なりの環境があって、遺伝があって、また経験もある。それを知らないのに、私がとやかく言うことなど出来ない。しかし、これは他者も同様である。他者は私のことを——例え家族や友人であっても——何も知らない。何も知らないのに、私の内面について語ることなど出来ない。お互い何も知らないのだから、利益相反する場合を除いてはお互いに何を言わないでおこう、そういう考えである。

 

  • 不干渉の合理性

 簡単な例で言えば、価値観の相違による軋轢である。早く結婚した方がいい、と強く思っているAさんと、結婚はしたくない、と考えるBさんという、二人の同僚がいたとする。いつまでも結婚しない、パートナーさえ作らないBさんに対して、Aさんが強く結婚を勧める。家庭は幸せだ、子供は可愛い、合コンに誘ってやろうか、どうたら。しかしBさんは、それを聞き流し、合コンに関してはやんわり断る。そうして、AさんとBさんとは少しではあるものの、軋轢が生まれていく。

 同僚の間柄でそんなことが起こり得るのか、と思う方もいるかもしれないが、人間とは自分の意見をまったく聞き入れない相手や、まったく参考にならない意見を陳列する相手に対して、多かれ少なかれ悪い感情を抱く。軋轢はやがて、別の局面で不利益を生み出す。政治家の権力闘争など、良い例であろう。

 さて、二人の軋轢には、互いに深い理由がある。Aさんはそもそも、不幸せな家庭を知らない。両親は深い絆で結ばれているし、兄弟姉妹とも円満。今でも年に数回は家族会をする。親戚一同ですら年に一回集まる。そんなAさんには、家庭を持たないという選択の意味が理解できないだろう。

 かたや、Bさん。両親は金銭トラブルで十数年に渡って大揉めし、破局。父と母のどちらに味方するか、で兄弟姉妹は分裂。今なお遺産相続で係争中。そんなBさんに、果たして家庭の魅力など理解できようか。金銭トラブルを招く厄介な存在でしかなかろう。

 この二人は、お互いにその背景を知らない。知らないのに、知らないということすら自覚せず、お互いに対してネガティヴな感情を蓄積していく。非合理極まりない。お互い知らないのだから、もはや何も言わず、不干渉である方が良い。一言二言で「ああ、この相手とは恐らく価値観が違うな」と察したら、あとは不干渉であったほうが良い。不干渉であれば、少なくとも互いに不利益を被ることが少なくなる。

 

  • 私における不干渉

 私の価値観全般もそれに立脚している。私は〇〇と思っている。そして、他者がどう思うかは別問題。他者に強制することは、私の利益を確保する場合を除いて殆どないし、無いように細心の注意を払う。だから、他者も私についてとやかく言う権利などないし、言わぬようにすべきである。

 無論、議論は好きだ。それは私の糧になる。理知に富んでいて、建設的で、参考になるような意見は、私の知見をより高いものへとしてくれる。また、矛盾や知識不足を厳しく指摘してくれる人には、素直に感謝している。私の足りない部分を補ってくれるのだから。

 しかし、難癖に価値はない。「貴方の考えは社会悪である」とか「貴方の考えで誰かが傷つく」とだけ言われても、「そうですか、でも貴方と関係ないですよね」としか思わない。実際、大抵の人間は私の考えで不利益を被るわけでもないだろう。他者に強制するわけではないのだから。

 私は私に関係する事柄以外、基本的にどうでもいいのだ。政治がどうなろうと、他の国で何が行われていようと、それが私の心を著しく傷つけたり、私の身近な人に何か害の及んだり、私の生活に何か不利益をもたらしたりすることがなければ、私はどうでもいい。私は生き地獄をどうするかで手一杯なのである。関係ないことにまでとやかく言う余裕などない。

 私の考えはあくまで私の考えである。他者に強制するものでもない。「私がこう思うからこうしろ」と言っているのではなく、あくまで「考えているだけで、実際どうするか、どうなっているかは別問題」というスタンスなのだ。

 だから、みんながどう生きていようと、何を思っていようと、私は構わない。

 私の世界を侵犯された日には、きっと怒り狂うだろう。

 

●考えを述べるという承認欲求?

 ところで、私は鶏と同等の記憶力しかない。このことすらも忘れがちなのだ。そして、世の人が大抵はこう思っていないことも。

 一般に、考えを述べることには多かれ少なかれ他者に対する共感の要求が含まれているらしい。私は共感して欲しい、とも思っていない。思っていないので、考えをそのまま口に出す。結果、相手を困らせてしまう。社会的生物として、褒められた行為ではない。そこで、考えを述べる際には、ある程度、世間的に受け入れられるようなものにとどめている。ただ、眠いときや飲酒しているときなどは、このことも忘れてしまう。

 これらのことを、私は忘れてはならない。