まどどブログ

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2021.10.07 友人について①/友人の分類と、それぞれによる利益について

2021.10.07

 

 毎日いくら涼しくとも、マスクのせいで体感温度はいとも容易く二度、いや三度程度上がる。そのせいで、服装も天候と同調したものにはならない。いったい、いつになったらマスクを外せる日が来るのであろうか。一刻も早くそのときが来て欲しいものだ。世間一般にそのような風潮となれば早いのだが、いやはや。

 

  • 友人の意味とは

 友人。基本的に人間関係の上で重要な要素であり、また多くの人間が当然のように持つ存在。私も当然のように、今までその都度友人関係を構築し、ある程度楽しいひと時を過ごしてきた。

 ただ、私はいま、こうも思うのである。果たして友人を持つ意味とは何か。私はこの一年以上、独りでとても快適に過ごしてきた。であれば、友人とは果たして、ほんとうに必要なのか。私だけでなく多くの者にとって、このことを考える岐路に来ているのではなかろうか。

 結論から言えば、私は必要だと思う。それは何故か。友人とは多くの面で私の利益となるためである。

 ここでは、友人がどのような側面において利益であるか、分解して考えたい。

 なお、ここでは日本人の友人関係を分析対象としている。それ以外では、また変わってくるのかもしれない。

 

  • 二種類の友人

 まず友人とは、その役割に応じて二種類に分類できると考える。

 第一に、間に合わせの友人。ここではトモダチと表現しよう。特定のコミュニティーにおいてのみ作用する関係を持つそれのことである。例えば、バイトを想定して欲しい。ゼミでも構わないし、サークルでも構わない。仕事仲間でも——少し概念として離れる気もするものの——構わない。今回はサークルにしよう。サークルにおいて、話し相手としてある程度は親しくする。お互いの日常についてもある程度の話は交わす。サークルにおいて活動を共にしている場合は、無論交流を深める。しかし、サークル活動が終了し、時間の経つごとに関係性は薄れ、やがて完全に消失する。これがトモダチである。

 第二に、親友。これは一般的な意味で解釈していただいて構わない。特定のコミュニティーの会話に留まることなく、日常にせよ、恋愛にせよ、果ては仕事にせよ。あらゆる局面のことについて相談し合い、議論し合い、また慰め合う。お互いに深くまで入り込み、深層を明らかにする。

 そして、この二種類の「友人」によって、具体的に自らの利益となる要素は異なってくる。

 

  • トモダチ:安心感と情報の提供

  この「トモダチ」を持つことのメリットは、二つある。

 一つ目は、安心感の提供。これは、人間の生理的現象である「会話」と深い関連がある。

 私が思うに、人間とは関わりがないと不安に思う生物であるらしい。無論、個体差はある。だが、総じて言えるのは、周囲が話している中で自分だけ黙っていて、誰とも関わりを持たないと、不安になってしまう。その不安感を解消するために、トモダチを持つ。トモダチとは、いわば人間の社会の根幹にある、生理的欲求の結晶なのだ。生理的欲求なのだから、このトモダチはもはや自然発生的と言っても良い。

 二つ目は、情報の提供である。特定のコミュニティーにおいて、重要だが明文化されていない情報というのは多々ある。例えば、大学における楽単情報などはそれである。この情報を獲得し、活用することで、生活を自らの望む方向へと最適化する。ここで必要となってくるのが、トモダチである。基本的に、このような情報は人間関係という環の中で周知されることが多い。故に、情報を入手するためにはトモダチが必要であるし、トモダチは——そして自分も——情報源として作用する。

 以上の二つが、トモダチのメリットである。その他にも、トモダチの中からパートナーを見つけることにより自らの生殖をより優位に進める、何を話しても共感されるため気休めになる、など些細なメリットは挙げられるであろう。だが、挙げればキリがないので、ここではこの程度とする。

逆に言えば、これらのメリット以外に、トモダチに求められている要素はない。だから、お互いに深い領域まで踏み込まない。つまり、関係性として希薄なのだ。何か思うことがあったとしても、本人には言わない。複雑そうな家庭環境に関しては、率先して話を逸らす。など。この場合、おそらく友人そのものに興味はない。期限付きの友人契約を如何に成就させるか、その結果として如何にメリットを最大化するか、これが重要視される。

 ちなみに、何を話しても基本的に共感されるのはこのためである。ほんとうに共感しているわけでは絶対になく、ただコミュニティーを乱したくがない故の所業である。その部分を勘違いしていると、唐突に村八分に遭う。

 

 個人的には、趣味友達というのも、限りなくこれに近いような気はする。趣味というコミュニティーが果てしなく続く故に、友人関係も持続しているのではなかろうか。トモダチであっても親友ではない、という可能性は存分にあるだろう。

 

  • 親友:メタ視点の提供

 では、親友にはどのようなメリットがあるのか。私は、二つあると考えている。

 一つ目は、異なる体験の取得である。これは簡単で、自分ではない体験に関する話を聴くことで、その体験を自らの糧とすることができる。これはトモダチでも見られる利益であろう。ただ、より詳細に、また隠し事もなく話すという点では、親友のそれの方がより強いと感じる。

 二つ目は、メタ視点の提供だと考えている。

 人とは総じて、独りよがりの考えに頼りがちである。無理もない。人間は自分以外に知覚することなど出来ないのだから。こういうとき、親友は有用に作用する。

 例えば、進路で悩んでいたとする。トモダチは基本的にコミュニティーの秩序にしか興味がないので、何を言おうと「すごいじゃん!笑」「いいと思う!」しか言わない。しかし、親友は違う。親友は自らの考えに基づいて、おそらく容赦無く矛盾を指摘するし、また評価できる点は素直に評価される。また、疑問点にも極力答える。このようにして、自らの思考と親友の思考とが徐々に近づいていき、何らかの結論という形で昇華される。このように、他者の思考を会得することで、自らの思考をメタ的に——IとYouとの総意なので厳密にメタではないのだが、殆ど同義であると考えても良かろう——見られる。これが親友による利益である。

 さて、これらが成り立つのは、何故か。親友との間には、ある種特別な関係が成り立っているためであろう。この関係性では、前者のそれと異なり、おそらく友人そのものに興味がある。友人が何を考え、何を思い、どう考えるか。それ自体に価値があるし、欲しているのだ。仮に多少の不和が起ころうとも、意に介することもなかろう。というより、もはやそれも織り込み済みなのかもしれない。とにかく、対象そのものに興味があるのだ。

 

  • 第三の関係性:コネクションの維持

 ……ごめんなさい疲れました。続きはもう少しあるのだが、後日にしたい。

 後日にしたい、というものがおそらく三つほどあるのだが、消化できるのだろうか。