まどどブログ

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2021.10.10 生活の燃料について

2021.10.10

 

 今日はなんと良い天気であろうか。秋の爽やぐ風の訪れ。「爽やぐ」が変換できないので可笑しいなと調べてみたら、どうやら古語であるらしい。無論、爽やかという意味ではない。今、初めて知った。私の語彙はただでさえ貧弱なのに、少なからず古語に侵略されてしまっているらしい。日常会話で咄嗟に言葉の出てこないのも仕方ない話である。

 

  • 私の活動の源

 私にはすべての活動において、共通の原動力がある。自動車にガソリンがあるように(私はEVもHVも嫌いである)、私にとって、すべての生命活動に共通した燃料があるのだ。身体の中で炎のような形を持っているので、これを私は炎と呼んでいる。

 以前、私の創作の源は憎しみと、素晴らしき心象の具現化、という二つのものがある。以前述べた通りである。述べたような気がする。それはあくまで、創作に限った話である。その前段階として、そもそも何かに向き合うことに有限の炎があるらしい。

 外出する。筋トレする。文章を織る。構成を考える。労働する。人と話す。それぞれ、炎を消費する。炎が尽きれば動けなくなる。そして、炎が一定以上まで回復しなければ、何もできない。回復すれば、再びそれを費やすまで熱心に活動する。また消沈する。その繰り返し。自動車と同じような生活をしている。

 これ故に、私は何かに持続して取り組むのが極めて苦手である。炎の供給されているときには、はっきり言って誰にも劣らないアウトプットを発揮できる。しかし、炎が尽きれば、屍よりも価値のない存在へと変貌する。

 恐らく、ここ数日間で一切文字が浮かんでこないのも、これが原因であろう。私はこの一週間、少し炎を消費しすぎた。動けないのも、ある程度は納得できる。

 

  • 活動の持続性のために

 さて、どうしたものか。この状況は、作家のみならず、あらゆる社会活動において問題を孕む。燃料が尽きたから今日は動けません、などというのは、少なくとも社会的に理解されるものではない。

 まず、基本的なことから考えよう。一つ、出力を絞る。炎は活動によって消費されるのだから、それ自体を抑えれば良い。一つ、入力を大きくする。炎が潤沢になれば、そもそも活動の幅は広がる。

 後者は不可能に近い。何故か。これは動物の部分だから。私が死をコントロールできないのと同じように、炎は動物としての私であって、これを意図して増減することなど現実的ではない。

 忍耐力や体力を付ければ、炎も増えるか。どうだろう。試したことがないのでわからない。しかし、私と同じような行動様式をしている兄が、いくらこれらを身につけようと、結局変化が見られなかったことを考えるに、そこまで大きなメリットが得られるものではないのかもしれない。それに、この原則は物心ついた頃から何一つ変わっていないので、そもそも大きく変化するものではないのかも。

 であれば、前者か。単純に考えれば、労働を減らす。人との会食を減らす。など。確かに、忙しくなればなるほど、私の炎の回復に時間を要した。だが、これにも、収入や刺激の低減という一定のデメリットがある。労働は極めて害であるが、現状の社会において、収入を得るためにはこれを避ける方法などない。また、会食が良い刺激になる、ということは、これまでの経験から理解している。

 

 現実的な線としては、前者の施策を、バランスなど考えつつ実行する、というのが妥当か。

 

 これは言い訳だろうか。何かを成したい、けれど何もできない、そんな私に対する。それとも、理性的な判断か。

 どうだろう。確かに元気なときの私は、私でも一目置くほどの成果を残している。文章など、私が見ても惚れ惚れしてしまう。だから、恐らく理性的な判断だと思う。そう信じたい。

 しかし、私は元来、自分をとことん甘やかす性格なのだ。やりたいことだけやっていたい。そういう性格。この私が、何もしない言い訳にこのような理屈を思いついているのかもしれない。

 わからない。実体を持たないものに対する評価は、苦手だ。特に自分のことなど。自分は見えないのだから。