2021.10.23
やられた。季節の移り変わりにやられた。
季節が移ろうたび、毎回私は意気消沈する。身体が重くて動かなくなるし、鬱々として何もしたくなくなる。創作もかれこれ一週間は放置してしまった。
なんということか。文の方も鈍ってしまったではないか。今日から復活だ。
- 演技が苦手な私
私は演劇が苦手である。観劇する側であれば、まだ良い。作品の世界観そのものを受け入れて仕舞えば、ある程度は楽しめるから。問題は、演者に回ったときだ。
笑ってしまうのだ。そう、笑ってしまうのである。演者として振る舞っていると、いつの間にか遠くから私を見下ろしている目がある。そして、その姿の、日常とのあまりの乖離に、思わず笑いがこみ上げてくるのだ。照れ臭いから、というより、ただ自然と、身体の内側から風船が破裂する、そんな気がする。
これに気づいたのは、おおよそ小学生の頃であったか。それから私は、演技が苦手になった。
- セックスという演技
セックスもまた、演技である。だから私は苦手だ。
非常に生々しい話で恐縮だが、例えば恥部を舐め回す行為が、本来生活に必要であろうか。快楽の中で何かを囁くのは、また必要であろうか。必要ないであろう。そもそも私は本来恥部などという穢らわしい部分を口にすること自体があり得ないと考えている。しかし、そうでもしなければそもそもセックスは始まらないし、相手方は気分を高められない。だから、ある程度自分を奮い立たせて、あるいは誇張して、セックスに臨む。
もはや、演技である。私は当然の行為としてセックスをしているわけではない。事前に得た知識を元に脳裏で台本を構築し、それに沿って動いているのだ。つまり、演技である。
演技だと、どうなるか。思わず笑ってしまいそうになる。無論、いつも笑いを湛えているわけではない。しかし、ふとした瞬間に——例えば相手がシャワーを浴びているとき、相手の恥部を舐め回しているとき、自分か相手が何か声を上げているとき——笑いが湧き上がる。そして、こらえる。笑ってしまっては、セックスが台無しになってしまうから。
だから私はセックスも苦手なのだ。性欲はあるし、突然どうしようもない欲求が身を焦がすことすらある。それでも、セックスにまで至らない。そこに至るまでの手続きがやたらと面倒というのもあるが、この演技が苦手というのも、要因としては大きいと考えている。
- 演技嫌いの理由は何か
さて、演技嫌いの理由は何か、実際のところ、これは明確化できていない。ただ、今考えて、なんとなく理解してしまった。
おおよそ、我を忘れることに対する恥じらいや恐怖、というのが根底にあるのだろう、とは感じている。私は理性からの逸脱を何よりも恐れる。泥酔して意識を飛ばした翌日、自分の理性とは離れた行為に慄くほどに、私は理性を愛している。それ故に、セックスや演技、といった、本来の自分、即ち理性から離れることが、よほど恐ろしいのだろうな、と考えている。
幼稚なシニシズム、と言ったところであろうか。望ましいものではない。これは裏を返せば、何にも本気になれないことを意味する。我を忘れないようにするには、本気を出さず、どこか傍観者であるのが望ましい。そうすれば、理性はずっと守られ続ける。しかし傍観者であっても、時は進む。私はこのまま、老いていく。私は私の人生を失ったまま、死ぬのだろうか。それが望ましいはずもない。
作家を志すなら、なおさら。作家とは、自己陶酔そのものなのだから。
今度、セックスでもしようかしら。ヤるならウケに限る。楽だから。
- 一般的にセックスは演技なのか
ところで、これについて、私はずっと疑問に思っていることがある。世の中の人も、このように笑いをこらえているのであろうか、ということだ。
相手方がどう思っているのか、インタヴューしたことはないので、実際のところはわからない。また、友人にこんな質問をする機会にも現状で恵まれていない。ただ、おそらく一般的にはそうでないのであろう、とも思う。
何故か。行為の度に笑うようなら、SNSにその様子をアップロードする人間なぞ皆無のはずだから。ふと我に返ったとき、抱腹絶倒しないものなのだろうか。自分が身を捩らせて快楽の雄叫びを上げている様など、落ち着いて見ればどう考えても可笑しさそのもののような気もするが。はてさて、不思議なものである。