まどどブログ

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2021.10.25(2) 民主主義の命日とポスト・デモクラシーについて

2021.10.25

 

 以下に述べることは、すべて私の妄想である。どんな口調で述べていたとしても、たとえ断定していたとしても、それが正しい可能性は極めて低い。

 正しいのであれば、なお嬉しい。

 

  • 民主主義の命日はいつか

 私は、政治学を専攻していないし、政治におよそ興味がない。故に、政治に関して、一切の発言権がない。それは理解している。ただ、ここ最近、素人目線でずっと思っていることがある。果たして民主主義は、いつ臨終を迎えるのか。

 ここ最近、民主主義を経由した意思決定は、明らかに中庸を失っている。アメリカが良い例であろう。共和党民主党はもはや、極右政党と極左政党になっている。それは、支持者にとって受けが良いから。これはアメリカに限った話ではない。世界のどこでも、中庸は失われつつある。

 日本とて、同じ道を辿りつつあるように思われる。かつての多様性を誇った自由民主党民主党はもう存在していない。前者は大きな渦を持ってより右側へ、後者はより左側へ。机上の美辞麗句を並び立てるようなポピュリズム政党さえ出現している。

 現状、日本にはまだ、ある程度の中庸も存在している。しかし、中庸派閥・中庸政党は弱体化の一途を辿るばかり。日本国民は封建制の名残か、政治にそれほどの興味がない上に、天皇という超越的な存在もおはしますので、国民の分断とまでは行かないかもしれない。ただ、少なくとも政策面においては他国のようになるであろう。自由民主党は極右政党になるし、立憲民主党極左政党になる。保守本流はもう、二度と日の目を見ることなどない。

 

  • この世界から中庸を奪ったもの:SNSによる「思想を崇める宗教」の形成

 政党が中庸を失うのは簡単で、票を入手するためである。支持者がそういう傾向なのだから、政党もそれに沿った政策を打ち出していくのは、間接民主主義において当然の行為であろう。

 では、なぜ我々が、中庸を失っているのか。本来、是々非々が最も望ましいことであるはずである。少なくとも、不満を何の検討もなしにそのまま極端な政策にするような行為が、到底望ましいとは思えない。

 私が思うに、これはSNSの発達が大きな要因なのではないか、と感じている。SNSは、同じような意見の者と簡単に交流できる。そして、タチの悪いことに、その母数は日常的に接する人数よりも何十倍も多い。日本国民とて、一億人以上はいる。たとえ社会的に外れた思想だとしても、有に数千人は同志がいることだろう。

 すると、どうなるか。数千人の同志に囲われて、自分の思想が間違っているかもしれない、など考えられる人間は、一体どのくらいいよう。自分の意見は絶対的に正しいものと錯覚するのだろう。仮に世間的に見れば0.01%未満の異端であっても、数千人という絶対数によって、人間は錯覚してしまう。

 そして、異なる意見を徹底的に排除する。自分の思想が絶対的に正しいのだから。仮に社会的規範であっても、親族が説得しようとも、すべて否定する。間違った意見だから。そうして、絶対的なコミュニティが確立する。

 これは何かに似ていやしないだろうか。そう、宗教である。SNSによって、この世界には、数多の新興宗教が誕生してしまった。神ではなく、思想を崇拝する宗教。思想は倫理などもたらさない。ただ、自分勝手な主張だけを人間に与え給う。

 この結果が、この世界である。崇拝する思想に合致するのであれば、論拠が如何に欠けていようとも、一切気に介さない。いや、介せない。気が付かないのであろう。崇拝しているのだから。当然、他の思想にも耳を貸そう、などという発想には至らない。当人から見たら、異端なのだから。

 

 無論、思想など、神よりも実体の乏しい空虚な存在なのだから、中庸を意識していればこのような事態には成り得ない。しかし、現実に、思想を思想として、また取り巻きを単なる取り巻きとして解釈できない知性の持ち主が多いのであろう。だから世界は中庸を失っている。

 

  • 民主主義は「思想の信者たち」に機能するか

 さて、民主主義の話に戻そう。民主主義とは、国民が主権者の政治制度である。私は冒頭で述べたように政治学を専攻しているわけではないので、民主主義というシステムの仔細な部分まで知らない。ただ、記憶にある限り、民主主義そのものが市民の政治参加を意味しているので、間接民主主義であっても、代表者に委任しているだけであって、その政策選択には責任が伴う。

 思想の信者たちに、その責任能力はあるのであろうか。そもそも、人間の理解には限界がある。すべての政策を詳細まで網羅することなど出来ない。それでも、自分なりに両方を比べて、あるいは政党として全体の傾向を押さえて、自分なりの政治への責任を自覚した上で、政策を選択する。

 理想論を語るだけの政党を支援する。よくわからない論拠で財政論を振りまく。相手の意見は拒絶。それは政治参加と言わない。単なる信仰である。そして政党も、そういう支持者を取り込めば票が手に入るので、ますます擦り寄っていく。そして、思想はより具体的な偶像を持つ。

 考えてみてもほしい。例えばキリスト教の観点で「貴方は主を信じますか」と訊かれて、どう答えるであろうか。私はどちらかと言えば無神論を支持しているので、「いいえ」と答えるであろう。一方、キリスト教の信徒であれば、「はい」と答える。ユダヤ教徒イスラム教徒なら、素直に「はい」とは答えないかもしれないし、仏教徒なら、また異なる答えが返ってくるかもしれない。この返答の中にあるのは、自身の中の宗教観であって、それ以外の何物でもない。

 今の政治も、同じ境遇に陥っているのではないか。私にはそう思えて仕方がない。誰ももう、政策を政策として見ていない。責任を自覚することもなく、何か論拠を確認するでもなく、ただ自分の中の思想にのみ基づいて行動している。

 宗教は宗教であるから、これで良い。しかし、民主主義は、合理的でなければならない。非合理的な政策選択は、もはや政治参加と言えない。

 

  • 機能しなくなる、ように見える民主主義

 ここで、私は一つの考えを述べたい。もう民主主義は機能しなくなりつつあるのではないか。

 信者たちに、この宗教を信じますか、と訊いて、一体何の意味があろう。合理的であるべき政策判断が、感情に委ねられたとしたら。その時点で、民主主義は一つの意義を失う。

 合理性を失った市民たち。本来、それは特権階級であったはずだ。本来、民主主義とは非条理な特権階級と戦い、特権階級を監視し、特権階級に代わって自らが国家を動かしていく、そのために生まれたものではなかったのか。市民が合理性を失ってしまっては、民主主義を誰が支えようか。もういないだろう。

 民主主義は、やがて崩壊する。そして既に、その前兆は起こりつつある。私はそう思っている。

 

 こう言えばわかりやすいであろうか。民主主義の担い手たちに、その資格はもはや殆どない。

 

  • ポスト・デモクラシーは如何に

 では、なぜ民主主義が未だ継続しているのか。それは、恐らく他に優れた手段が存在しないからであろう。

 無論、アフリカ諸国や中国、ロシアなど、歴史的に権威主義的な政治制度の確立している国家では、民主主義は破棄されやすい。しかし、西欧諸国のような民主主義を戦いの末に獲得した国、日本や韓国のような能動的に制度を導入した国、アメリカのようなそもそも民主主義が根底にある国、これらの国で民主主義を放棄すれば、大混乱を招く。だから、当面は民主主義が続く。

 しかし、やがてそれも崩壊する。では、ポスト・デモクラシーは何か。二つの傾向が考えられる。

 第一に、権威主義的な体制。これは特に論ずる必要もなかろう。北朝鮮や中国のようなものである。これについては、ポスト・デモクラシーというより、単に以前の体制を発展させただけとも言える。この政治体制は、強力な指導力のある一方、歴史的にも明らかなように、権力者が——経済政策などポジティヴな意味だけでなく、監視体制などネガティヴな面も含めて——無能だと一気に崩壊する。

 第二に、監視を伴った集団指導体制。そもそも民主主義の根幹にあるのは、政治体制にある人間の腐敗と、それによる市民への抑圧があったと思われる。であれば、その懸念を取り除いて仕舞えば、民主主義よりも合理的な政治体制が確立させるのではなかろうか。各分野の専門家が、合理的に政策を立案・決定していく。監視システムによって、腐敗を防止する。そうすれば、市民感情という介入も、選挙という大金を要する政治空白も、極限までゼロにできる。極めて合理的な政治体制ではなかろうか。

 問題なのは、肝心の腐敗防止システムが現状では実現不可能にあるという点である。令和になっても、政治家の不祥事は後を絶えない。少なくとも現代において選挙以外に、体制を監視する事前的装置がない。

 

  • 民主主義の命日は、新たなシステムが構築された日

 私はここに、一縷の望みを見出している。このご時世、技術発展の著しい社会。きっと、市民による選挙などという、非合理で感情に満ちた監視システムを遥かに凌駕する監視システムが、いつかは出現する。

 そうすれば、より美しい政治が、この世界に舞い降りることであろう。知識と、知恵と、分別の支配する世界。源氏物語よりもずっと幻想的な、理性に溢れた世界。

 ああ、私はその世界を、なんとしてもこの目で見てみたい。そう思うのであった。

 

  • 補足:思想を顕にし、増幅させる装置としてのSNS

 記す場面がなかったので、最後に補足したい。SNSや思想の蔓延に関する見解について、一つの反論が予想される。SNSの発生によってこのような傾向がゼロから生まれたわけではない、というものである。確かに、政策をすべて理解することなど不可能であるし、政策に責任を感じている一般国民など、いつの時代もおよそ皆無であろう。それに、排他的な人間はどの時代においても、一定数存在する。当然、昔から、ある程度はこのような、どこかポピュリズム的な風潮があったであろう。

 ただ、SNSによって顕在化し、SNSによって増長した。これは現実のように思われる。SNSがないころは、そもそも政策は政治家の手にあった。民衆が——少なくとも社会的な犠牲を払わずに——簡単に一致団結できない時代であれば、極端な思想を持っていても、多くの人間は黙っている他なかった。現実のコミュニティが、今よりもずっと強かったのだから。

 しかし今は、SNSで簡単に、何のリスクもなく、思想を主張できる。そしてそれが前述のように増幅していき、やがて大きな渦となる。政治家はその顕になったニーズを広い、反映させる。

 SNSとは、便利なものだ。良くも悪くも、同志を集結させる。

 

2021.11.02追記:結局、先日の選挙では左派が敗北したし、何故か中道政党が少しだけ勢力を拡大したし、何や与党では右派が干されてしまいそうだし、まったくもって的はずれな発言をしてしまったかもしれない。素人が口挟むもんでないな。