まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.10.26 天の目について

2021.10.26

 

  • 天の目

 昔から、ずっと私には、どこか空からの目があった。

 誰かに監視されているような気がする、とか、人の目を気にしなければ生きていけなかった、とか、そういう話をしたいのではない。ただ、どこか自分を遠くから眺めている、そういう目があった。

 小学生の頃から、なんとなく感じていた。私が何かに熱心に打ち込んでいる、そんな期間。ふと、熱の引くときがあるのだ。何故かなど、理解できるはずもない。ただ一時的に、興味を失う。幼少期、私はゲームが大好きだった。それでも、あるときを境に、そのゲームから手を引いた。そして、暫くすれば、また興味を抱く。

 何かに限った話ではない。中学生の頃も、高校生の頃も、ずっとそうだった。本来やるべきことをやらないがあまり、大人にたいそう叱られることもあった。趣味ですらそうだった。

 飽き性なのか。そう思っていた。無論、飽き性なのもあるだろう。しかし、それだけでは説明のつかないものであった。すべてがどうでも良くなる。自らの為すことすべてが無価値に思えてくる。そういう時期が、定期的に必ずあった。

 大学生になって、そういうことはめっきり減った。しかし、最近また、再発した。そして、この奇妙な無気力が、天の目の所為である、ということも、やっとわかった。

 私はどこか、自分の行為そのものを、自分という存在から離れて見てしまう癖があるのだ。すると、どうなるか。すべて、空しく思えてくるのである。

 

  • 空しさ

 この世は空しい。

 仕事。恋愛。家庭。育児。友情。

 すべて空しい。どの意味で空しいか。山と、海と、空と、星々である。

 私がパートナーを愛そうとも、山はその座を譲らない。私が労働に見を投じようとも、海はその波を止めない。私が家庭を持ち、子を愛そうとも、空はその色を変えない。私がどんなに友と仲睦まじく過ごそうとも、星々はその美しさを失わない。

 私が何をしようとも、すべて不変。それで私は、空しくなってしまう。空しくなって、何事も馬鹿らしく思えてくる。

 甘えかもしれない。自分が何も為さないことに対して、自然を理由にした逃げ。

 ただ、私はもうずっと、物心が付いたときからずっと、こうなのだ。無論、幼少期の頃からずっとこう考えていたわけではない。しかし、幼いながらに、無気力感はあった。それを言葉にすると、こうであった。ただそれだけの話である。

 

  • 空しさへの対処法

 では、どうするか。まあ簡単な話で、暇を与えないことだ。

 私は暇になると、あらゆることを思考する。その結果、必ずと言っていいほどこういう結論に至る。当然であろう。自然から見て、我々の所業は何の意味もないのだから。この帰結自体は揺るがし難い。

 ただ、それでは日常生活に支障をきたす。特にこの社会というのは、そういう考えで生きていけるものではない。皆、そんなことを考えることもなく、あるいは考えたとしても飲み込んで、生きている。私も人間である以上、当然、それに合わせる必要がある。

 そこで、暇を与えない、という選択を採る。暇がなければ、私はこんなことを考える余裕もない。暇がなければ、私は私を省みる余裕もない。

 暇を無くそう。