まどどブログ

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2021.10.29 クズな私と新たな試行について

2021.10.29

 

 今日は言い訳を連ねる。

 霞むほどの言い訳である。いくら醜い言い訳であろうとも、形に残しておかなければならない。

 このような決断をしたのは私である。人生における不利益はすべて私の責任である。この責任を具体化しておかなければ、きっと私はまた逃げる。

 

 このコロナ禍を通して、私は重要なことに気づいた。

 一つ。私はどうしようもなくクズであること。

 一つ。怠惰で自分に甘い人間が、根から勤勉な人間になることなど不可能であること。

 一つ。クズはクズなりに生きていくのが合理的であること。

 

  • あまあまな私

 私は何だかんだ、とても自分に甘い。基本的に辛いことに対して真剣に向き合うより、そこから逃げる手段を真っ先に考え、実行する。そして、なんだかんだ、上手くいく。当然、困難に立ち向かった結果を知らないので、上手くいっているように見えるだけなのだが、それでもある程度は満足のいく結果を引き出す。

 私はこの私がとても嫌いだった。それでは、いずれ必ず後悔する。逃げ続ける人生の行末は、きっと美しいものではない。いずれ必ず、あのときこうしておけばよかった、なんでこうしなかったんだ、などと言って、忸怩たる思いで生に幕を下ろす。それだけは絶対に嫌だった。あまりに醜いから。

 だから私は変わろうと決心した。このようにルーティンを設定したし、創作にも取り組んだ。読書にも精力的に励んだ。

 秋までは、比較的順調に進んだ。私は変わった。情熱と憎悪に溢れる男になった。そう思った。

 冬になった。布団から出られなくなった。ルーティンも「創作に着手しない日はしなくて良い」などとよくわからない特例を作って、おざなりにした。創作も「初めての試みには慎重にならなければ」などと言って、何もしなくなった。

 結局、何も変わってはいなかった。

 

  • 趣味:寝ること

 私の趣味は何か。まず、音楽鑑賞。次に、読書。筋トレ。旅行。

 人様に対しては、こう言う。ほんとうは違う。まず、寝ることである。それ以外はすべて二の次である。

 冗談ではない。私は一日で十八時間布団の中にいても、苦にならない。布団の中にいながら、音楽を掛けて、天井を眺める。ときたま、スマートフォンに目をやる。目を瞑っていても良い。これだけで一日が終わる。用を足す、食事を摂る、スピーカーを調整する。そういうときだけ起き上がっていれば、あとはひたすら、寝ていたい。

 こういう趣味を持っているので、どんなときでも、横になりたい。音楽を聴きつつ、温まっていたい。だから家で作業が出来なくなった。出来ないのではなく何もしていないだけだ、と言われるかもしれない。正論である。しかし、私にとって布団の中にいるときはセックスと同等か、それを凌駕する快楽でもある。目の前にセックスが待ち構えていて、大方のオスは果たして我慢できようか。出来ないであろう。無論、快楽のベクトルは異なるものの、私にはこういうほうが性に合っている。スキンシップに似た快楽と言えよう。尚更抵抗が難しい。

 ちなみに布団が無くとも私は寝る。床があれば、必ず横になる。これは過去十年間で立証されている。

 

  • 私の弱点:外圧と床の消失

 では、社会人生活もままならないのではないか。当然、こういう疑問が浮かぶ。それはあり得ない。二つの観点からあり得ない。

 まず、私は外圧に弱い。締切。自分で遂行しなければならないタスク。こういうものに対して、私は極めて従順になる。これは親の教育の賜物である。特に、社会人において、これらは評価に直結する。私は自分の利に敏感である。これらをかなぐり捨てて睡眠にかまけるほど、私も愚かではない。

 次に、私は環境の変化にも弱い。床があれば必ず寝る。絶対に寝る。しかし、床が無ければ寝られない。故に、環境の変化が起これば、つまり家から出て仕舞えば、一定以上の効果が見込める。受験期、あまりに家で勉強できないがために、ずっとカフェに通っていたほどである。そのせいで当時の貯金はすべて消え失せたものの、なんとか現役で進むことが出来た。恐らく、家で頑張っていたなら、二浪は難くない。

 

  • 私の特徴:クズ

 逆に言えば、外圧も無ければ環境も変わっていない。そういう状況で私は何もしない。そう、端的に言って私はクズなのだ。

 私の特徴を簡潔に言えば、怠惰な快楽主義者である。何よりも快楽を求める。しかし、そのための労力が過剰、つまり苦労に変化しそうな場合、私は何もしない。布団にくるまっていれば、簡単に快楽を入手できる。その選択を採る。文字に起こしてみて初めて気づく、あまりのクズさ。

 創作においても、これは遺憾なく発揮される。基本的に、創作というのは自発の結晶であろう。創りたい、そういう欲求が、何よりも勝るのではないだろうか。私は違う。まず寝たいという欲求が根底に在る。その下に、創作意欲だとか、憎悪だとか、そういうものが渦巻いている。そのため、床があれば何もしない。冬は特に。布団は本当に心地よい。自発的な目標は、一切の意味を為さない。布団の中にいるほうがよほど幸せである。

 ちなみに、旅館でも基本的に何もしない。頑張って、本を読むくらいだ。床があるから。仮に旅行先で原稿に取り掛かるような身分になったら、私はホテルを選択するであろう。ホテルであればそうやすやすと寝られない。私は外出先の服装で寝ることを許さない。寝ることが好きなだけ、寝ることに拘りもある。

 

 考えてみれば、これまでの人生において、自発的に何かをした、という大きな記憶は、幼少期で止まっている。確か図鑑を見ながら、宇宙について自分なりにまとめあげたものを作っていた気がする。そういう作業は今でも好きだ。好きなのだが、それは横になりたくないという稀有な現象下で起こるものであって、基本的に寝てしまう。

 中学・高校時代は比較的精力的に動いていた。それは、純粋に学校に籠もっていたし、締切もあったし、自分が動かなければあらゆる部分に停滞が見られる状況下だったから。締切があれば家でも動けていた。そうでない日には、アメーバになっていた。

 そういえば、以前私は自分の創作が気まぐれであることを嘆いていた。これは、純粋に家の中では横たわる衝動に殆ど勝ち得ないことが理由だったのだと思う。

 

  • また一つの試行

 ここで私はまた一つ、試行を実施する。家から出て、作業してみようと思うのだ。私は幸い、学生の身であり、大学の図書館を自由に利用できる。大学の図書館では、パソコンをパチパチしていようと、特に何か言われるということもない。私はこれを利用する。大学の図書館に赴いて、パチパチ、カキカキする。怠惰の根源を断ってしまうのだ。

 これで床は消え失せる。では、外圧を如何に加えるか。これは、他者に関与させることが考えられる。友人と定期的に会う、小説を双方向の場に投じる、など。辛いことは必ず言い訳を作って逃げようとする私にとって、締切だとか、衆人環視だとか、そういう外圧は必須である。とりあえず、一つ、外圧の要素を既に構築した。もっと増やさなければ。

 

  • 手段ばかり固めることの意義

 形ばかりにこだわって、内面に向き合っていない。あまりに滑稽。成功する人間の所業とは思えない。

 そんなことはない。優れているときの私の文は、恋をするほど美しい。客観的に見ても、ある程度は評価されている(友人の間なので、馴れ合いの可能性もあるが、少なくとも私の知る彼らはそんな弱い人間ではない)。その確率を高めるためには、手段に向き合うのが合理的である。アウトプットの質がある程度担保されているので、あとはアウトプットに至る道筋、アウトプットの手法や構成、アウトプットの選択肢、広報手段、そういったものを増やすのが最適解だ。これについては、中高時代、百万もの文字を綴ってきた私に感謝したい。

 それに、幸運なことに、私は布団を優先しても、ある程度は大きな支障もなくここまで成長した。これはつまり、それ以外の生き方を知らないのである。私は創作という、完全なるフロンティアに挑もうとしている。ライフスタイルも当然、変革を迫られる。私はいま、すべてが暗中模索、試行錯誤の最中にあるのだ。厳しさの私よ、大目に見てやってほしい。

 

 ところで、弘法筆を選ばず、ということわざがある。私は凡人だ。というより、クズだ。クズはクズの生き方をすべきなのである。間違っても、天才の生き方をしようとしてはいけない。

 私は「俺は天才じゃないから無理」と言ったような論調が極めて憎い。が、現に、生得的な差というものは人間にある。それを度外視することも、あまり得策ではない。

 度外視しなければ、成功することなど出来ない。まあ、そうなのだろう。遥かに優れた人間が死ぬ気で努力して、上手く潮流を掴んで、やっと成功を収める世界なのだから。だが、やってみなければわからない。なんだかんだ、それなりに生きてこられた私なら、死なない程度には生きていけるのではないか、などと、また自分を甘やかしてみたりもする。そういえば、かつての想い人も、このように言っていたような。

 家族に依る部分が大きいのは重々承知している。不利益はすべて自己の責任だが、利益は必ずしもそうと限らない。それでも、そう信じたくなってしまう。私はクズだから。

 

 なお、布団の上で作業する、というのは現実的でない。

 それは座っているのと同じである。横になりたいのであって、布団の上にいたいのではない。あくまで布団は横になるための装置なのだ。