まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.10.30 新しい掟について

2021.10.30

 

 先日述べたように、私は特例を作りがちである。特例を作って、辛いこと、苦しいことから逃れようとする。

 それでは何ら意味がない。大方の人間にとってそうであるように、私にとっても特例というのは好ましいものではない。

 そこで、私は以下に、恒久的なルールを制定しようと思う。無論、あまりにプライベートな部分は除く。それはメモ帳にでも書いておけば良い。

 

 このルーティーンについては、以下のようにしたい。

・歯を磨き次第、ないし移動先に到着し次第、速やかに取り組む

 起床二時間後、などと以前はしていたと思うが、それでは結局起床から時間が空く。その時間で私は布団に転がり込む。その結果、一日をそこで過ごす。

 であれば、最初から布団に入らないようにすれば良い。布団に入る間もなく、パソコンに向き合う。

・どんな日であろうと、必ず記す

 私は途中から、創作に取り組まない日であれば、これを記すよりも他のことに注力した方が良い、などと言い、サボっていた。また、労働の翌日に関しても、どうせ書いたところで良い文章など生まれないから、などと言って、サボっていた。論外である。文章というものは、離れれば離れるほど廃れていく。どんな駄文であろうとも、毎日着実に取り組むことが肝要なのである。いつも何か妄想している私にとって、テーマはありふれているであろう。

 

  • 小説への取り組みについて

 小説への取り組みについては、以下のようにしたい。

・基本は最低でも五千字書き進める

・展開がわからなくなったら「何がわからないのか」をすべて書き出す

・構想は一日で集中して行う

 私は筆が極めて遅い。こういう、思考をただ漏らすようなものであれば、一日で一万字は簡単に進む。しかし、フィクションだと、三千字以上書き進められたことがない。そして、約六千字書くと、それで一週間停滞する。

 疲れてしまうのも、一つの要因ではある。書くときは一気に書いて、一日中ほとんど休憩を取らないためだ。ただ、それだけではない。構想があまりに長い。展開が不自然になって、構想を練り直すと言って投げ出して、何日も筆を止める。実際は何も考えていない日が大半で、やる気の出てきた一日で突然構想を思いつき、それで三千字一気に書き進める。そしてまた休む。その繰り返し。それでは、一向に先が見えない。

 そこで、上記の三点を設けた。まず一点目は、当然と言えば当然だが、私は書かずに頭の中で考えることが多い。それでは、視覚化されていないものを抽象的に捉えるという点で非効率的である。人間の思考は一度言語に落とし込んだ方が促進される、というのをどこかで聞いた気がする。そこで、まず、書いてみる。トライアル・アンド・エラー、というやつである。

 そして、それでも二進も三進も行かなくなったとき、二点目に移る。なぜ、この先が進まないのか。これを脳内だけでとやかく考えるのではなく、すべて書き出す。そして、具体化する。その時点で展開に気づきがあれば、それで良い。

 その上で、三点目に移る。その筆が止まった次の日——止まっている日はおおよそ疲れているので、構想まで至らない——に、一気にその課題を解消する。設定を整理する。人物相関図を明確にする。人物に性格を与える。など。それを一日で終了させる。ダラダラやっていると、いつまで経っても創作に戻られない。

 とりあえず、これで一定以上の効果が現れるはずである。別の問題が出てきたら、その段階で速やかに対処すれば良かろう。

 そのためには、ノートが欠かせない。なぜ、家に置いてきてしまったのだろう。

 

  • 絵について

 実際のところ、絵は小説の二の次である。小説の時間を割くわけにもいかないし、モチベーションにも乏しい。それに、あまりに下手なので、家でしか基本的に描こうと思わない。いや、描けない。しかし、商売道具として、ある程度の絵心は獲得しておいた方が良い。

 さて、どうしようか。

 現時点では、「小説に飽きたら描く」くらいしか言えないのだが、それではあまりに曖昧である。そうだな。こうしようか。

・家にいるうち、半分のペースで絵に充てる日を設ける

 どうせ家にいるときはまともに小説に取り組めない。寝ているか、音楽を聴いているか、どちらかである。であれば、ゆるゆると、音楽に注力しつつ、絵に取り組むのも良いであろう。風流人、という感じがする。幸い、絵にまったく興味がないわけでもない。完成する絵がとても醜いことを除けば、あまり苦しい目標設定とは言えないだろう。

 余談だが、私が古典を好んだり、絵に興味を示したり、小説に手を出したりするのは、何となく上流階級への憧れが根底にあるような気もする。平民に生まれたことに少しコンプレックスを抱いていて、それらに向き合っている私そのものに酔っている、そんなところがある。まあ、良いんでないか。それが動機になって、実際に形を成すのであれば。

 

  • 休憩について

・タイマーをセットする

 確か、以前「動画を観ない」とかそういうことを言っていたと思うのだが、そうではない。本質は、休憩がいつの間にか数時間に及ぶことであって、別に範囲内であれば動画を観ようと、音楽を聴こうと構わない。

 タイマーをセットするのである。一時間ごとに、十分休憩。二時間ごとに、二十分。昼食と夕食と入浴は、一時間ずつ。糖分補給と夕食後は三十分。甘いだろう。仕方ない。私はクズだから。ただ、特例を作らず、これに従って動くことが、重要なのである。

 あれ、何時間残ってんの、これ。一日十四時間起きているとして、せいぜい六時間くらいになってしまいそうだが。まあいいか。その分、時間ごとの作業効率を高めれば良い。

 ああ、こう考えれば、作家や漫画家の方々の食生活が悲惨なのも理解できる。純粋に、食事に費やす時間があまりにない。せいぜい、うどん茹でて食べるくらいであろう。一日は短いのである。その点、ひっぱりうどんは三十分で作って食べられるので、優れた料理である。栄養価も高いし、味も良い。

 

  • サボりたくなったときについて

・憎悪と恐怖を創り出す

 私は調子の良いときとそうでないときの差が極めて欲しい。今はやる気に満ち溢れているので、このようにパソコンと向き合うことが苦にならない。しかし、いずれ、すべてが面倒になる。私はそういう生き物である。では、どうすれば良いか。

 私はNHKをよく見る。以前、誰だか知らないものの、なんだか成功したらしいピアニストが登壇していた。彼の言葉は、私に鋭く刺さった。彼は、二週間寝ていいと言われればずっと寝ている怠け者だ、と語った。私と同じではないか。のび太くん、と呼ばれていたらしい。私よりも酷いかもしれない。彼はそれをどう克服したか。恐怖であると言う。何かを残さなければならない、その恐怖心が、というよりその恐怖心を声に、文に繰り出すことによって視覚化し、自分に鞭打った。そして、彼は成功を収めた。なるほど、その手があったか。

 私の場合、それは憎悪であろう。布団の重みによって浮かび上がってこないだけで、私の中には確実に憎悪が渦巻いている。結局のところ、私はこの世界が憎い。

 そして、私の中にもまた、恐怖心が根付いているのかもしれない。私は何より、消えゆくのが怖い。消滅に慄く。私は——哲学的議論を放棄して——私という個の存在を疑わない。だから、こうやって形に残している。後世がどうとか、社会がどうとか、そんなことははっきり言って一切興味がない。ただ、憎くある社会に消えるのが、怖い。

 そこで、こうしよう。サボりたくなったとき。私は、名も知らぬピアニストの手法を流用するとする。憎悪と、恐怖心を、ひたすらに書き連ねる。人間とは単純な生き物で、感情は言動によって左右される。それを利用する。何故私がこの世を憎むのか。憎むべき存在は何か。何が怖いのか。怖いとは何か。テーマなら豊富にある。そうすれば、多少なりとも、創作への意欲は向くのではなかろうか。

 

  • 「私」という存在の乖離

 ただ、実際のところ、情熱の私と怠惰の私というのは、ただ記憶を共有している別の個体とも言えるほど、乖離甚だしい。記憶のみを頼りに、このような手法を考案しているものの、実際に運用されるかどうかは、正直やってみなければわからない。

 とりあえず、やってみることにする。上記のものは、ある程度、現状の問題を網羅しているはずだ。これ以外に課題が見つかったときは、また付け加えるとしよう。

 

 ……椅子が高くて、肩がとても痛い。まず、この課題を解決せねば。