2021.11.02
昨日、思索の末に何か帰結を得たのだが、忘れてしまった。なんだったっけな。私には一分前に考えていたことすら忘れてしまうところがあって、とても困っている。
いや、ほんとうに忘れてしまった。他の話題に移るとしよう。わりかしお腹が痛いので、早めに記してしまいたいところである。
思い出すべきこととは異なるが、これは記しておこう。布団の快楽にどう抗うか。簡単に五時間くらい溶かしてしまうのが、布団の恐ろしさである。
実は簡単な方法で布団の快楽は無くなる。布団を畳めばいい。私はなぜそのことに気づかなかったのだろう。怠惰もここまで突き抜けているともはや長所にもなりそうなものだ。ならないだろうか。
- なぜ人は夕焼けに心奪われるのか
私は夕焼けが好きだ。紅に染まる空。しかし青がすべて駆逐されるというわけでもなく、徐々に紅が青を染めていく。そして紅自身も、やがては黒に染まる。雲たちも、ビルも、いや視界すべてが、その色を移して、漂っている。そこには、昼の、太陽のような絶対的支配者も存在しない。ただ、それぞれの物体が、それぞれの色が、自我を主張することもなく、あるがままに存在している。私はその整然とした美しさが好きだ。これだけ力説してもたったの166字。文章を練ることはなんと難しいことか。語彙力の欠如を感じる。滔々と語るような表現手段は向いていないので、敢えて書かずに読者の想像を引き立てる、という作戦を取るのが吉であろうか。
そして、夕焼けが好きな人間というものは、どうにも私だけではないようだ。一般に、夕焼けは愛されていて、和歌にも多く詠まれているし、現代の作品にもよく登場する。クレヨンしんちゃんの映画に、『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』というものがある。私は基本的にこのような幼児向けアニメを好まないのだが、オトナ帝国だけは別格である。それについては長くなるので、ここでは触れない。この映画では、「夕焼けは人を振り返らせる」という台詞があり、夕焼けが映画を成す大きな要素の一つとなっている。そして概ね高い評価を得ていることから、およそ世間の共通認識として、多かれ少なかれ似通ったものがあるらしい。
ところで、この「嵐を呼ぶ」というのは、もしかして『嵐を呼ぶ男』から来ているのか。今気づいた。
だが、ここで一度考えてみたい。そもそも私は、なぜ夕焼けが好きなのだろう。こう言葉を並べ立てて見たは良いものの、それは私がそう思っているからであって、何一つとして客観的な根拠として成立し得ない。別に秩序立っていないと思われればそれまでだし、太陽は支配者でもなんでもない、などと言われて仕舞えば議論はそこで終わる。何が言いたいか。つまり、これは私の思い込みに過ぎない。
これは世間一般にも同様のことが言われるのではなかろうか。和歌では夕暮れが秋のものとして扱われていたり、前述の作品では懐古させる装置として描かれていたりする。しかし、夕暮れというのは本来、地球が自転している限り恒常的に発生する。それに特段の意味はないはずである。
では、なぜ人間は夕暮れを愛するか。この要因として考えられるのは、人間が基本的に昼行性の生物であるというころであろう。人間は昼に活動し、夜に眠る。最近はそれが崩れつつあるような気もするが、原初ではそういう生活様式を送っていた。
ここで夕暮れは昼から夜への転換、即ち活動の終わりを意味する。一日の終わり。本来であれば、もう少し活動もできよう。そういう名残惜しさが、夕暮れへと転化していったのではないだろうか。そして、夜でも活動できるような文明を得たあとでも、その本能だけが、我々に脈々と受け継がれているやもしれない。
そして、夜への恐怖、というものも、その離愁——と言っても良いだろう——の背景にはあるような気はする。当然、夜になったら眠るような生活の中で、街灯など存在しない。せいぜい炎が関の山。田舎だちたる人であれば理解できると思うのだが、夜は、まるで海に放り出されたかのように、広く、孤独である。せいぜい心の拠り所になるのは星々と月であろうが、それすらも遠く、冷たい。神々——現代であれば動物や災害などと区分されるものたち——の怒りを突如として買う恐れすらある。夜は、恐怖の存在である。そうすれば、必然的に昼を恋しく思う。その結果、夕暮れはより、後朝の体裁を強める。
そう、実は人間の夕暮れへの想いというのは、恋慕と同じなのかもしれない。