まどどブログ

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2021.11.04 代替可能な存在が無価値であることについて

2021.11.04

 

 今日は今日で、ある意味有意義な一日だった。私は体調の悪いとき、あまりに睡眠負債を蓄積したとき、気絶したように眠る。久々に、今日はそういう日になった。いくら目覚ましをかけようとも、意識だけは起きても、身体を起こせないのだ。そういうしているうちに、瞼が落ちて、また寝てしまう。その繰り返し。睡眠負債が消失するまで、気絶し続ける。

 そういうわけで、いま起きた。これでも恐らく、今晩の二時ごろにはまた眠ってしまうだろう。今日という日は消滅した。まあ、睡眠負債が返済できたのなら、それはそれで良い。こうなるまで身体を徹底的に疲労させることが肝要である。コロナ禍で地の底まで落ちた体力を回復させるには、これしかない。創作は体力勝負でもある。

 

  • なぜ代替不可能な存在以外は無価値なのか

 私は、代替可能な存在はすべて無価値である、と考えている。価値とは、代替不可能なこと、それそのものである。

 では、なぜ代替可能な存在が無価値なのか。それは、たった一つの事柄から説明される。代替可能であれば、結局上位互換に置き換えられてしまう。

 例えば、フロッピーディスクとハードディスク、そしてソリッドステートディスクを考える。ある世代では、フロッピーディスクというものが世の中を席巻したらしい。しかし、今ではそれを見ることすらない。ハードディスクに置き換えられている。そして、そのハードディスクですら、ソリッドステートディスクというより高機能なものに徐々に置き換えられつつある。こうして、同じベクトルの代替財は、高機能なものに次々置き換えられる。それは人間も同じである。私のような凡人にとって、上位の存在というのは確実に存在する。必ず自分よりも優れた能力を持つ、上位互換が。それに、我々は老いる。老いれば、能力値というものは確実に低下する。これを踏まえて、本質的に誰でも良い仕事に就いたら、どうなるだろう。必ず代替される。最後には、明らかに不必要な存在となる。これがつまり、無価値、ということになるのだ。代替可能な存在というのは、最後に必ず無価値になる。

 

  • 本質的に無価値な人間

 ここで注意したいのは、無価値なことが決して非難されるべきではない、ということである。そもそも我々は本質的に無価値である。そうだろう。我々に代替不可能な存在など、およそ存在しない。我々一人ひとりはこの世にいてもいなくても特に問題を発生させない存在であり、単なる小さな駒の一つでしかない。ここで私が消失しようとも、海はその姿を変えない。有力な政治家が行方不明になったところで、政党ですら、それを補って、残酷なまでに変化なく機能する。誰が消えようとも、この世界は美しく回る。誰一人とて、かけがえのない存在などでは断じてない。

 ただ、私はそれが怖い。これは私の価値観である。私は消失が怖い。この世でいずれなかったことになる。それが、何よりも怖い。私は確かにここに在るはずなのに、それすらも遺らない。それが怖いのだ。

 故に、遺したい。それだけのことである。