まどどブログ

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2021.11.05 嗅覚の優位性について

2021.11.05

 

 昨日、悲しみの渦に沈んでいるとき、ふと気づいてしまった。私は最近、一切頭を使っていない。大学の講義で忙しない時期であれば、テスト勉強などで多少の労力を割くことも出来た。また、ある程度資格というものに対して肯定的な態度を取っていれば、そのための勉学に勤しんでいただろう。

 勉学というものは非常にはっきりしている。あれは目に見える努力である。学を深めれば深めるほど、成績という絶対的な評価でそれが還元される。労働もそうであろう。賃金、ないし業績という形で、自らの血汗は結実を迎える。勉学も労働も、頭脳の行使、そして努力という点において、よく出来たシステムなのだ。

 私はずっとその畑で生息してきたので、現状のような、成果として絶対的なものでない事物というのは、どうにもしっくりこない。慣れていくしかないのだろう。気づけば高みにいた、そのようになるのを願うばかりである。

 

  • 私の人生における嗅覚の重要性

 五感。味覚、視覚、触覚、聴覚、嗅覚。私の中で、最も重要な五感は何か。それは嗅覚である。

 まず、前の二つについて、私は極めて脆弱である。味覚。はっきり言って味の違いなど、不味いか美味いかの二択でしか感じ得ないし、不味いと判断する基準も限りなく低い。故に、基本的に「美味い」か「すごく美味い」か「とんでもなく美味い」なのだ。なんと幸せ者であろうか。そして、視覚について。私は視力が昔から悪い。そして、現状ですら、徐々に悪くなりつつある。このような状態で、視界を頼れるわけもない。

 そこで、後ろ三つがそれなりに発達した。特に、人間関係において、この三つは惜しみなく発揮される。いや、というよりも、視覚があまりに弱々しいので、補完しているのだ。私は人間を、手触りと、声と、匂いで判別している。誇張などではない。誰がどんな肌で、どんな声で、どんな匂いを持っているか。これによって、かなりの部分の判別を行う。

 これを象徴するエピソードとして、私は人の顔を基本的に覚えていない。なんとなく輪郭や特徴を覚えていても、誰がどんな顔をしていたか、仔細には思い出せない。それよりも、肌触りであったり、声であったり、匂いであったり、そういったものが鮮明に思い出されるのだ。顔はぼんやりとしたものであっても、匂いは再現できる。他の人がどうなのか、は知らない。異常者扱いされるのが怖いので、このことを誰にも話したことはない。

 いや、厳密には異なっているかもしれない。それぞれの感覚は、それぞれ、在る種の指向性を以て扱われている、というのが正しいか。例えば聴覚——声は、人間を判別する大前提として機能している。これは私の中で、普遍的に用いられる判別手段である。一方、嗅覚——匂いは、それを持つ人間にのみ機能する。多くの人間は無臭である。そのような人間に、嗅覚が機能するはずもない。そうではなく、良くも悪くも強烈な匂いを放つ人間、そういったものにこれは機能する。そして、触覚——肌触りは、それによって区別しようとする人間にのみ働く。言って仕舞えば、もっと知りたい、情報を得たい、という人間にのみ働くのだ。これにはポリシーがあって、あまり私は人間に触られることを好まないというのもある。気を許した人間にだけそれを許す、というよりそれを望むことで、新たな情報を入手する。この点で、触覚というのは判断手段として機能していると言い難いのかもしれない。ただ、私の触覚はかなり鋭敏である、というのは事実である。

 さて、この三者で最も優位性を以て働く感覚は何か。それは嗅覚である。まず、触覚は誰彼にも機能するものではない。そして、聴覚。昔は聴覚の方が有利であった。しかし、コロナ禍によって、明らかに音に対する反応が薄れた。声というものが声として認識し難くなってしまった。文字ベースで日本語に触れ続ける日が多くなったため、相手の会話がどうにも言葉として入ってこなくなったのである。熟語はカタカナで入力され、それが漢字に変換されるまで、数秒を要する。こうなってしまうと、聴覚に頼ることは難しい。それで、嗅覚が魁に躍り出る。

 何が言いたいか。私は人間の判別において、匂いが全面に出る。そして、恋しい匂いは、いつまでも脳裏から離れない。薫という人物はきっと、このようにして多くの女性の心を掴んでいったのだろう。

 

 だから忘れられないのだ。匂いというものは、言葉でない分、扱いにくい。