まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.06 疲れとその精神論的対処法について

2021.11.06

 

 妄想することがある。私が作家として大成したときのこと。私の作品が多くの心に届くこと。

 すべて無駄である。こんな妄想を重ねるのは己の実力を知らないから。妄想というのは、即ち、夢物語であって、現状では絶対に達成し得ないものである。なぜ現状で為し得ないのか。それは実力が足らないからである。仮に妄想がある種の正当性を持っている、つまり実現性が高いのであれば、実現すれば良い話であろう。そうはなっていない。それは単純に、実力が足らないからである。

 妄想しているうちは努力が足らない。妄想している時間は無駄そのものだ。精進せよ。絶望するほどに努力すれば妄想は途絶える。

 

  • 疲れとは何か

 はっきり言おう。疲れた。たかだか大学に通って、一日数千字書き留めるだけで、これほどまでに疲れてしまうとは。コロナ禍で大きく体力が減少しているようである。

 体力とは柔軟性を持ったタンクのようなもので、使わなければ使わないほど、みるみるうちに少なくなっていく。普通乗用車が五十立だとすれば、今の私は一竓くらいであろう。

 そういえば、鏡に映った自らの姿に、唖然としてしまった。なんと情けなく、アンバランスなかたちか。足も腕も細すぎるし、不自然に上半身、特に胸部だけ大きい。ナードそのものが、眼前には在った。筋肉が著しく衰退してしまっているのだ。数分走っただけで、乳酸の蓄積を感じるほどに。男とは筋肉でもある。筋トレせねば。

 それはどうでもいい。疲れとは、何だろう。疲れというのは、身体からくる現象であると認識している。しかし、「疲れた」と感じるのは、心の部分ではないか。疲れた、ということが認識できるということは、あくまで意識的にそのようなメッセージを受け取っている、ということになる。つまり、突き詰めて考えれば、疲れとは意識の領域において存在する概念の一つなのだ。

 

  • 疲れを克服するための根性論

 であれば、こう言うことも可能ではないか。

 「疲れた」と感じる節があったとする。それを甘えだと断定する。ほんとうに疲れていれば倒れるはずであるが、私は倒れない。故に疲れているのではなく、これは甘えで、ただ逃げたいだけなのだ、と。実際、ある程度はその部分もあるだろう。人間は恐らく、安全装置として、倒れる前段階で動けなくなるだろうし、またそのさらに手前で「疲れた」という信号を送る。つまり、「疲れた」と思ってから、動けなくなるまでには、かなりのブランクがあるはずなのである。それを精神力で乗り切れば、より作業量は向上するであろう。

 ここでポイントだと思っているのが、「疲れた」と考えながら作業してはならない、ということである。ほんとうに疲れているかどうかは別として、「疲れ」という心理を引きずっている状態だと、どうしても作業効率は低下する。ほんとうは休みたい、そういう逃げが存在してしまうからである。それなら、先手を打って「そう思うことこそが甘え、私は疲れてなどいない」と断じる。これによって、動けなくなるまで、効率的な作業が望める。

 私は根性論に関して、全面的に否定のスタンスを取っていない。このように、論理的に考えれば、ある程度は効果の望めるものも存在するためだ。

 

  • 疲れを解消するか、動けなくなるか

 ここで私は、一つの疑問を抱いた。疲れを日々解消してリセットするのが良いのか、それとも疲れを根性でごまかして、動けなくなるまでしゃかりきになるのが良いのか。そういえば、私は最近まで、「疲れたら休まなきゃ」などと思って、少し動いたら一日中布団の上で休む、ということを繰り返していた。体力が激減したのはそのせいではないか。それぞれメリットとデメリットがあるから、それを整理する。

 

  • 疲れを都度解消することのメリデメ

まず前者のメリットは、常にフレッシュな状態で作業に臨める、ということである。確かに疲れを引きずって作業すると、どうしても質というものは落ちる。その点で、ある程度高い質を維持できることは予想される。

 一方、デメリットは、作業の継続性の損なわれる可能性があることと、作業時間の削減される可能性があること、甘えて必要以上に休む可能性があることであろう。疲れを取ってから作業する、ということを随時行っていては、どうしても作業を通貫して行うことは難しいし、その疲れを取る、ということが作業時間を侵食するかもしれない。

 それに、疲れとはそもそも、甘えとの親和性が高い。疲れているか疲れていないか、それは心の領域であって、自分の身体がどうであれ、そう思って仕舞えば、疲れたままである。例えば、ほんとうはやりたくもない作業を押し付けられて、気の進まないとき、疲れやすくなるかもしれない。嫌なこと、向いていないことほど、疲れやすくもなるだろう。

 疲れとは、要するに、目の前の事象がキャパシティを超えているから、それを忌避しようとしているのだ。この場合、ほんとうは作業を継続できるのにしない、という甘えを選択する可能性は否定できない。当然、疲れた、という心理的現象に付随して身体的に何か問題が生じるようであれば、それは別の問題であるが、疲れが甘えかもしれない、という認識は、少なからず持つべきであろう。

 

  • 動けなくなるまで動くことのメリデメ

 少し脱線してしまった。次に、後者のメリットは、作業を一貫して為せること、甘える余地が断たれることにある。特に忘れやすい人間や怠惰な人間にとって、作業を中断させない、というのは重要なことに思える。故に、これは十分なメリットになりうると思える。それに、甘えてサボるような人間にとって、その退路を断つことで、作業に向き合わざるを得ない環境を構築できるという観点から、これも効果的と言える。

 そして、デメリットは、恐らく精神力が途切れた途端に動けなくなること、寿命が確実に縮むことである。例えば、作業が何か一つ、区切りを迎えたとしよう。その途端、集中は途切れ、身体が重くなって動かないことは、容易に想像できる。疲れは心のものであるが、その根幹には身体が存在する。それを無理やり無視していたのだから、それを認識したら最後、反動がどっと押し寄せる。そこからの立ち直りは、かなり難しいものになっていくだろう。そして、身体への無理は、確実に寿命という形で跳ね返る。

 さて、このように、それぞれメリットとデメリットがある。ここからどちらを選択するのか、それは個々人の性格によるであろう。私のようなクズであれば、恐らく前者のような選択を採れば、一生を「疲れた」と言って寝て過ごす。であれば、極限まで動いて、区切りが付いたら動けなくなる。その方が、効率という観点から見て、合理的な判断だと思われる。

 

  • 疲れによる世界の停滞

 さて、疲れは甘えの側面を持つ、と前述した。事実だけ見れば、疲れとは目の前の事象からの忌避である。そが忌避しても特に差し障りないものであれば、大いに逃げるべきである。例えば仕事などはそれに該当する。そういう、自分以外でも生産可能な作業に関して、無理強いするのは、理解に苦しむ。

 しかし、ほんとうの意味で自分しか生産できないもの——例えば創作物——であれば、話は別である。疲れた、などと言って、放置したらどうなるのか。誰かがやってくれるわけではない。ただ、放置される。私は現に、三週間放置した。驚駭したものである。放置していた間、一文字も進んでいなかったのだから。その間、その世界も、動かない。

 これが良いとか、悪いとか、そのような話をしたいのではない。ただ、事実として、こういうことになる。疲れた、と思ったときは、これを強く認識しなければならない。自戒である。

 

 ところで、疲れているとき、必ずと言っていいほど鼻血が出るのは、一体どういう訳なのだろうか。