2021.11.07
ここ数日はプライベートでどうしても専念せざるを得ないので、一旦創作はお預けである。なんというか、こういうときに少しホッとしている自分がいる。創作から逃れる口実を得たのだ。
- 格言の無意味さ
格言。人間は、格言が大好きである。この世の中には当然のように、著名人の開発した格言が跋扈していて、我々凡人はそれを有難がって享受している。私もまた、その一人だった。
しかし、格言とは無意味である。何故か。格言には、そこに至るプロセスが、まるまる省略されているからである。
例えば、『諦めたらそこで終わり、諦めないから道が広がる』と言ったような格言があったとする。ありきたりであるが、ここに個々の特色を結びつけ、着色できるのが、格言たる由縁である。著名人の経験談。そういうものを添加することで、格言というものはより説得力を増す。
まあ、至極全うなことが書かれていよう。ただ、ここでは「では諦めないようにするにはどうすれば良いか」がまるまる抜けている。諦めたら夢が終わる、などというのは、脅迫としては確かに有効かもしれないが、具体策としては何の効果も持たない。例えば「おなかがすいた」であったり「ねむい」であったり、そういう欲望から如何にして逃れれば良いか、現世のいざこざからどのように折り合いをつければよいか、なんてことは、格言から読み取ることも出来ない。
恐らく、その「夢」を追い求める才能があるからこそ、著名人として成功を収めているのであろう。しかし、凡人はそうではない。普通の人間であれば、「夢」をいつか諦める。「夢」はあまりにリスクが高い。その点で、夢だとか高みだとか、そういう抽象的なものを述べている格言というものは、少なくとも我々にとって、無意味である。
少なくとも、そんな格言に頼って、無駄な精神論を崇めるより、「夢」のための努力を否応なく実現しなければならないような状況下に、自身を追い込む方が効果的なように、私には思えてならない。
- 作品の背景を語るなかれ
字数が足りないので、追加でもうひとつ。
作品の解説、なんてものをやっている作者は、それなりにいる。私はそれを、あまり適切でないと感じる。それは作品の印象を固定化するためである。
作品というものは、観る人、聴く人、その人それぞれによって、あらゆる顔を見せる。その人の失恋であったり、別れであったり、はたまた成功であったり。こういうものが、幾重にも折り重なって、その人だけの作品を完成させる。
それを、この歌詞は我々の売れていないときの心境を現していて〜などと解説してしまったら、どうなるだろう。そういう歌詞になってしまう。そういう曲になってしまう。楽曲の多面性は失われ、固定化される。
当然、作品を創ったのはその作者であって、その作者がそう言うのだから、それが正しいのかもしれない。第一、それを快く思わないのであれば、気に介さなければいい。そうかもしれない。ただ、少なくとも、その前の色でその作品を見ることができなくなってしまう、という側面は、あるのではなかろうか。油絵のようなものである。耳にした、目にした、そういうこと自体が、絵の具になって、自分のキャンバスに振りかかる。
無論、これは自己満足の類であって、だからどうした、という話にはならない。ただ、仮に私がその立場になったとしたら、自分の作品の解説は絶対にしたくないなあ、とも思う。誰かの絵を塗ってしまいそうで。