まどどブログ

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2021.11.09 不幸について

2021.11.09

 

 不幸とは、何だろう。

 不幸とは、きっと自分の人生から離れてしまうことを言うんだろう。

 例えば、イデオロギーに心奪われる人。政治思想でも、陰謀論でも、何らかのシンパでも、何でも良い。イデオロギーは必ずしも、自分の人生そのものの幸福を最大化しない。イデオロギーというのは大勢を相手にしたものであって、個々人に最適化されたものではない。政治思想であれば、すべて己の願望と一致しているとは言い難いだろうし、陰謀論などもはや何が楽しいのか理解すら出来ない。それでも、イデオロギーに心を乗っ取られる人間は必ず存在する。自らの人生がどうなってしまうのか、他者からどう評価されるのか、この言動がどう作用するのか、そういう自分本位の視線を失って、ただ公にだけ仕える。

 例えば、叶わぬ恋に心奪われる人。叶わぬ恋というのは、叶わない、それ以外の意味など何一つとして存在しない。それを思い続けることは、将来あるべき出会いも、幸福も、苦しみも、すべて投棄することになる。自分の人生を捨てて、その恋の沼に飲まれて沈む。

 例えば、自らの小ささを嘆く人。他者、ひいては世界に比べて、自らが小さいこと。そんなことはもはや自明なのである。それを受け入れられずに、いつまでも、自らの為すことは何の意味もなく空しい、などと戯言を垂れ続ける。自らの人生に生きず、他者の、ないし公の世界に溺れて死ぬ。

 これが、不幸だ。不幸とは、自分の人生から離れてしまうこと。自らの存在を、それそのものとして認められなくなってしまうこと。

 では、不幸でなくなるには、どうすればよいのか。自分の人生に立ち返れば良い。イデオロギーを客体として捉え、恋を思い出に昇華し、自らの小ささを受け入れる。自らを、自らの主体にすれば良い。

 でも、自分の人生に立ち返るには、どうすれば良い。主体にするには、どうすればいい。それがわからない。

 それがわからないうちは、私はずっと不幸だ。

 

 全然関係ないが、私は恐らく漢語より和語を使う傾向にあると気づいた。やはり古典ばかり読んでいるからであろうか。それとも、語彙が足らないが故であろうか。