まどどブログ

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2021.11.10 作品を殺す罪深さについて

2021.11.10

 

 歯石を取るだけでこんなに痛いのに、大病を患ったらどれほどの激痛に襲われるのだろう。それで死を望むのも、少しは理解できる。

 ああ、人間というのは、如何に儚く、空しい生き物なのだろう。私は歯科クリニックで、死への無力感に苛まれていたのであった。

 なんで?

 

  • 作品を殺す罪深さ

 私はケモナーなので、陰ながらインターネットを漂い、多くの方の作品を楽しませてもらっている。そして、作品が完結を見ること無く、完全に放置されているのも、少なからず見かけるのだ。

 まず一言言っておこう。私にこれをとやかく言う資格など、少なくとも現段階では、ない。仮に数多の苦しみを甘受し、大成を迎えてもなお、同様のことを考えているのならばそれは正当性を帯びるとも言えようが、現状私はただの外野でしかない。そんな私がどう思おうと、それは私の文句でしかない。

 それを承知で、ここに一つ、書き記しておく。作品を殺すことは、ひたすらに罪深い。作品は生きている。そこに世界がある。その世界を産み出したのに、それを放置しておくなど、言語道断ではないか。作品を創ったならば、作品の花道を飾る権利がある。想像にお任せ致します、では済まされない。例えば神がいたとして、我々の世界をいま、この瞬間で停止させてしまったとしたら、意思だけが残された我々は何を思うのだろう。怒るだろう。多かれ少なかれ、我々には自由意志というものが存在すると信じ込んでいて、それの通りに生きることを何よりも望ましいことであると考えている。それを、見たこともない、よくわからない概念によって、根本から朽たれるのである。なんと罪深いことであろうか。

 それと同じではなかろうか。作品は生きている。生きていて、動きたいのに、動けない。作者が筆を折ってしまったから。その世界は、一体何を思うのだろう。

 無論、作品の担い手が作者であり、作者が人であり、人には人の都合がある。我々は現世を生きなければならない。その辻褄を合わせる必要すらある。しかし、それでも、完全に塵芥の一粒と化して良い理由など、どこにも存在しない。少なくとも、在る種の方向性を示すべきなのである。

 ラフでも良い。こうなって、こういうことが起きて、最後にはこうなります、というプロットでも良い。なんなら、メモ書きに小さく、わずかに書き残すだけでも良い。世界のベクトルを遺すべきではなかろうか。そうすることによって、作品は少なくとも、躍動する機会を与えられる。そのまま、現の闇へと溶けていってしまうかもしれない。その可能性は大いにある。しかし、また別の創造主が現れて、救い出してくれるかもしれない。その世界の、在るべき姿で。

 私はこれを思うとき、いつも『アクタージュ』を思い出す。あの作品は、もう二度と完結することもないだろう。最後の姿で、その世界は温度を、緩慢に保ち続ける。そんな残酷なことが許されてたまるか。

 作者が逮捕されるのは当然であるし、被害者が責められて良い謂れなどどこにもない。しかしそれでも、夜凪景は生きている。なぜ殺して良いのだろうか。私にはわからないのだ。作品を殺すのが罪深いと思っているから。

 

 最近気づいてしまったのだ。私には恐らく、創作というものから恐ろしいほどに嫌われている。現世の事物を処理する才能はあっても、どうにも、世界を創造する才能がないみたいだ。才能がないからと言って諦めることは出来ないが、前途多難なのは間違いない。

 そこで、私は一つの誓いを立てる。作品を一度世に放出してしまったら、私はいずれかの行動を取らなければならない。どんな駄文であろうと作品を完結させるか、作品をこの世から抹消するか、どちらか。

 私は何だかんだ言っても、私の世界を愛している。見捨てることなど、絶対に出来ない。

 私の産んだ世界は、私の手で始末する。

 

 あとどうでも良いことで恐縮だが、もうひとつ。私は稀に、自らの孤独を嘆きつつ、かつての想い人の匂いが脳裏に霞んで思い乱れる、という発作を起こす。これってもしかして、発情の証では?