まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.12 『この世界の片隅に』と我々の日常について

2021.11.12

 

 プライベートが片付いてしまって、今日からまた創作に向き合わざるを得ない日々に戻る。なんというか、少し嫌だ。そうだな、例えるならば。例えるなら。そう。

 

 なんだろう。良い例が思いつかない。創作とは畢竟、禅問答のようなものである。明瞭たる答えがあるわけでもない。成果すら茫乎として移ろう。私の人生において、雲の問いなど存在し得なかった。必ず、努力に比例して成果が実を結ぶ、そういう至って鉄の、合理的な事象の中に身をおいてきたのだ、私は。例えば勉学。例えば筋トレ、例えばゲーム。すべて、コストに見合ったリターンが齎される。こういう私にとって、創作を例えることなど難しかろう。

 それでも強いて例えるとするならば。旅先、雪の舞う外へ踏み出す、その一歩。さながらそのようなものであろうか。私は雪を知らないのだ。

 

 今日はとても穏やかな気分である。こういう日は創作に向かない。とは言ってもやらなければならないのだが、少なくとも、何かご高説をつれづれなるままに、などという気にはならない。そこで、映画のレヴューでも思い起こしながら残しておこうかと思う。

 『この世界の片隅に』という映画があるだろう。広島に実家を持ち、萩かどこかに嫁いだ主人公が、徐々に戦争に近づいて、原爆を経て、終戦に向かう話。まあ簡単に要約すればこうなる。

 確かこれを見たとき、私は高校生であったか。極めて気分が悪くなった。不気味だったのだ。当時、私はその由縁をあまり深く考えていなかったものの、とにかく不気味だった。何か、映画の中に暗いものが蠢いているかのような。これは級友の誰にも理解されなかった。感動した、と誰かは言っていた。とんでもない。感動などとは程遠い。気分が悪くなる。

 あれは何故であったか。今であれば、なんとなく感じる。誰も気づかぬうちに、戦争という狂気に巻き込まれ、日常がのんびりと崩壊していく。その様が、何とも優雅で、静かで、奇怪であった。恐らく、登場人物の誰しもが、己の狂気に気づいていないだろう。あるがままの日常を享受して、その日その日の世界に合わせて生きていく。例え空襲に見舞われようとも、原爆が落とされようとも、それが異常で、歴史的なイヴェントであるとすらも思わない。ただ、日常の延長線上として、そこにその事実を受け入れる。

 それがなんと恐ろしいことか。その世界は、我々の世界と何も変わってなどいない。あるがままの日常を受け入れる。それは生物としての生存本能によるものなのだろう。適者生存。その本能によって、我々は狂気の道へと進む。いや、狂気ですらないのかもしれない。それは当然の帰結であって、日常の続きなのだ。

 それに気づいて私は、慄いた。いや、単に恐れただけではない。人間はいとも容易く変容する、その移ろいやすさに、神秘性すらも見出した。あやしきこととか、古代の人は言う。あやし、という言葉は、きっとこのことを言ったのではなかろうか。

 ああ、きっとほんとうの反戦映画とは、これを言うのであろう。私はそうも、今思っている。

 

  • 戦乱も、革命も、すべて日常の果て

 私は歴史が好きだ。高校のときなど、古文・漢文・日本史・世界史の成績だけ異様に優れている、と言った、典型的な歴史オタクのような状況にまでなっていたほど、歴史が好きだ。そのせいか、どうもイヴェントに着目してしまうきらいがある。例えば長徳の変なんかは物語じみていてとても面白いし、世界大戦の蠢きなんかも心揺り動かされる。

 しかし、どれもこれも、きっと日常の果てなのだ。『この世界の片隅に』のように、すべて日常があって、人々はその状況を受け入れてきて、その結果として、そのようなイヴェントが発生する。というより、後世にイヴェント認定される。イヴェントだと思っているのは我々末裔だけであって、当時の人々は、決してこれほどまでには考えていないはずなのだ。特に、蚊帳の外の人物にとっては。

 例えば、コロナ一つ取っても。コロナは明らかに歴史的なイヴェントでもある。しかし、これが結果として、どのように社会を変容させたか、どのように世界を動かしたかなど、我々にはわからない。はいおしまい、また元通り、かもしれない。コロナで失われた文化、なんてものが紹介されるかもしれない。何か歴史的な分水嶺に立っているのかもしれない。しかし、それは我々にはわからないのだ。我々にとって、これは日常なのだから。

 

  • イヴェントを再生させないために

 では、仮に二度とそのイヴェントを再生させたくないのであれば、どうするか。きっと『この世界の片隅に』のような広報が良いのであろう。ありきたりな反戦映画のように、戦争そのものにフォーカスして仕舞えば、そのイヴェントはイヴェントで完結する。我々と切り離される。しかし、日常にフォーカスすると、どうなるか。我々の世界に連結する。無関係では居られなくなる。人間というものは、自らに関係性を付与されると、居ても立っても居られなくなる生物らしい。

 そうは言っても、現状で再生させたくないイヴェントなど、戦争くらいのものであろう。それ以外は、もはや完全に失われた。後世でどうだかは、わからない。たぶん、死刑とジェンダー差別が来るような気はする。大いに結構。人間は平等なのだ。単なる肉なんだから。このことを、早くヒトも理解してほしいものだ。

 

 ところで、私は布団の中で突如として思い出した。中高時代の、情熱の根幹を。

 あまりにプライベートなのでここでは記さないが、私のための備忘録として。いやはや五感とは、忘れないもののようだ。

 あと、爪が伸びすぎて、キーボードの間の溝に食い込む。剥がしてしまいそうである。切らないと。

 

 そういえば、私が「ヴ」と表記するのは、原語でvを含むものである。例えばレヴューは"review"だし、ラヴは"love"、アーカイヴは"archive"、といったように。微妙に原語と意味が異なっている場合も、輸入品である限り、基本的にこれを遵守する。何もインテリぶっているわけではないのである。言葉は刃なのであるから、正しい方が望ましい。