2021.11.14
昨日、今日と、ずっとサボっていたら少し元気になった。疲れていたのだろうか。どれほど疲れやすい身体をしているのであろうか。まあ良い。やはり睡眠は大事なのだろう。悪夢を見たとて、睡眠は睡眠、私の愛すべき方なのだ。
それはそうと、私は一つ、あることに気づいた。私には忘れられない人がいる。どうしても忘れられないのだ。何故なのか。それすらもわからなかった。別に顔が良いわけでもないし、知的なわけでもない。どちらかと言えば、性格上、相反する存在ですらある。しかしそれでも忘れられなかった。
昨日、唐突に思い出した。匂いだ。私は以前述べたかもしれないが、嗅覚が極めて鋭敏である。その人の匂いは、あまりに芳醇で、まるで春をひとところに集めたかのようなものだった。そんな匂いを持つ人間、その人以外に出会ったことがない。だから忘れられない。冗談で言っているのではない。私は嗅覚で人間を判断する。これだって、私にとっては十分に立派な判断材料なのだ。
それならそれで、特に忘れる必要もなさそうだ。同程度に芳しい人間に会ったら、自然と忘れてしまうだろう。それか、その人から匂いが失せにけるか。それまでは、想い続けても良かろう。
- リアリストか、ロマンチストか
私は極めてリアリストである。物心ついたときからそうである。リスクを最小限にして無難に生きること、これを何よりの是とする。両親もそうであるし、それが当然であるという教育を受けてきたし、一定以上の生活水準を維持することが何より重要か、私自身も痛感しているので、特にこれについて疑問を抱いているわけでもない。
そして、世の中にはそうでない人間もいる。いわゆる自由人というやつである。夢を追う、気ままに生きる、なんでも良いが、とにかく自分の気のままに生きていく。それによって、自らの社会的地位を気にもせず、ないしかなぐり捨てて、人生を生きる。そういう、私の対局のような人間も少なからず存在する。
私の両親は、こういう人間を軽蔑している。軽蔑するような教育を受けてきた。私も軽蔑している。現実を見ないこと、それが滑稽に思えて仕方がないのである。私の周りでよく言われるのは、これである。
いい年して。
私とて、そう思う。夢叶わぬ人間というのは、純粋に、滑稽である。実力に見合わず足掻く、そのさまは、なんとも醜い。私は醜いものが大嫌いである。不快になるから。
しかし、そういう生き方に、何とも憧れてしまうのも、また一つの私である。以前も述べたが、飽きてしまったのだ。概ね安定した道というのに、飽きてしまった。私は再び見たいのだ。燃える血潮を。感涙の夕暮れを。苦難の春を。成人するまでにとことん味わい尽くしてしまったそれを、私はまた経験したい。そのためには、どうにもこのままの無難な人生では行けない。大人になりたくない。
私はいま、この葛藤の最中にある。考えずに創作にのめり込む。それは当然である。初心者であるうちは、無駄なことを考えず、ただ学ぶ。しかし、仮に成功を収めたとして、いや成功せずとも、必ず選択すべき時は来る。リアリストのままで良いのか、ロマンチストになるのか。どちらが正しいかなんて、わからない。それでも、選ばなければならない。恐らく両取りは難しいだろう。何かを得るには、何かを捨てなければならない。
さて、どう折り合いを付けるか。ここまで色々と述べておいて恐縮だが、まあ、恐らく直感に頼ってしまうことだろう。人間は未来予測というものが出来ない。どうすれば上手くいくかなんて、わからない。故に、直感、というより自身の責めにおいて、選ぶしかない。こればかりは、どうしようもないのだ。
何より避けるべきなのは、他者によって決定することである。それは逃げだ。人生というのは、すべて己の責任によって構成される。他人の目であったり、世間の評価であったり、そういうもので人生を構成するのは、甘えを作ってしまう。すべて自分の意思で判断せねばなるまい。自分のせいにするのだ。すべて。
結論が見えなくなってしまった。最後にこれだけ言いたい。
最もしてはならないこと、それは醜くあることだ。醜く生きることだけは、してはならない。それは人間の尊厳に関わる。どのような選択にせよ、必ず美しく生きなければならない。
私はいま、美しいのだろうか。美しいってなんだろう。あの人を想い続ける私は、醜くないのか?
違う。私は今日、あることを思ったはずだ。
どうせ叶わぬ夢だとしても、それを想い続けることがなぜ悪いのか。悪いはずなんてない。それが私の人生なんだから。
どうせ私は他人のように上手に生きられない。それならば、自分なりに生きるしかないではないか。
何が言いたいのかわからなくなってしまった。まだ疲れているのか。