2021.11.15
今日も眠い。眠いときは言葉少なに。
“v”のときは原音に忠実にヴを用いる、なんて言っていたが、これは嘘である。ただハイソぶって使っているだけだ。” Volume” をヴォリュームと記載しなければならないなんて、不格好に過ぎる。
- 澄み渡る飢餓
昨日だったか、私は自由人を羨む、なんてことを言ったと思う。一晩経って思うのだ、たぶん私は仮住まいの中にいるのだと。少なくともあと半年足らずで、労働という名の黄泉の国送りになる。そうすれば、仮設の家は容赦なく撤去される。私は良くも悪くも、帰るべき場所を失う。いや、失うことだって簡単にできる。
そのとき、私は氷のように生きていくのも良いのではないか、なんて、思ったりもする。いや、餓死寸前にまで追い込まれたことはないので、果たしてそのような状況の中でも表現に邁進できるのかはわからない。それでも、氷の美しさに、もしかしたら私は近づけるのかもしれない。少なくとも、そういう選択肢も視野に入れることが、美しくある一つの方法なのだと思った。
今日から創作ではなく、表現という言葉を用いることにした。私はどうも、表現者になりたいらしい。
- 何でも相談できる間柄?
何でも相談できる間柄を俗に、家族であったり、親友であったり、そう呼ぶらしい。私にはその意味を採るならば、家族も親友も存在しないことになる。
悲観的なコメントがしたいのではない。私には自然と家族も友人もいる。ただ、誰かに何でも相談した試しがない。具体的に言えば、私の根幹に関わることについて、少なくとも思春期に入ってから、誰かに相談したことなどない。
例えばセクシュアリティであったり、悩ましき彼のことであったり、そう今だって、自らの進路であったり。私はこれらについて、誰にも相談したことがない。愚痴は話した。しかし、相手の意見を聴こうなどと思ったことは一度もない。ただ私の根幹に関して話して、相手の求める、あるいは認識している像に徹して、同意する。私の話をダシに、その対象との信頼関係を深める。ただその一手に尽きる。
何故か。これは二つ、要因が考えられる。一つは教育。私は——恐らく多くの大和男子がそうであるように——弱みを見せることは男の恥だ、と教えられ、それについて賛同してきた。そして、自らの根幹とは、弱みそのものである。動物で言えば、弱点そのもの、そこを取られて仕舞えば死に至る、そのようなものである。故に、見せない。恥だから。ちなみに、涙を見せることは禁忌のような扱いを受けてきた。その訓戒の賜物で、私は人前で泣くことが出来ない。涙が出ないのだ。一人のときは如何に泣いていようか、他人が知る由もない。
それに、私はかねがね、こう言われてきて育った。お前の人生はお前のもの。私には関係ない。そういう価値観が醸成されては、一体どのように相談しようと言うか。そう、すべての人間とは、本質的にパラレルなものなのだ。これに反駁すべきことでもない。ただ、私はこう考える。
そしてもう一つは、無益さ。人に何かを相談することは無益である。何故か。誰も自分の目でしか物を観ようとしないから。相談事というのは、大抵自身の中で客観視したい、ないし明確にしたい事象があって、それを言語化というプロセスを図ることによってその実現を迎えよう、というものであろう。それはじぶんごとでなければならない。自分のことなのだから、決して他者の色が混じってはなるまい。しかし他者はいとも容易く混ぜ込む。自分がこう思っているのだから、こうするのがきっと正しいはずだ。そう、簡単に思い込む。いや、もはや無意識下の事象であろう。そうして、役立たずの、無用の長物が出来上がる。
例えば、父親がどうしようもない人間で、離婚沙汰にまで発展しそうな家族の対立が巻き起こる。自らはもはやそれを覚悟しているが、家族の分離に多少の不安を抱えていて、その解消方法を探っている。それを、相談に値すると考えていた人物に話したとする。そして、その人物は家族仲良く慎ましく暮らしている。その先入観に基づいて、「父親にもきっとお前のことを大切にしているんだから、少し考え直してみれば」などと言う。
どう思うか。まったく無益ではなかろうか。正常な親子関係など、とうの昔に破綻している。破綻していることに気づかず、いや、それを問おうともせずに、自らの価値観を押し付ける。まったく無益、まったく無意味、まったく無駄。これが上場企業の投融資であれば、間違いなく糾弾されている。そのようなことを、人間は平気で犯す。故に私は他者に相談しない。
- 信頼?
ああ、そもそも、私が人間というものを信頼していないのもあると思う。私は気丈で温厚、そのように通っている。誰も私のことを見られていないのは明らかである。どこが。仲間に裏切られたとき、どれほど気を病んだか。家族が離散したとき、どれほど涙の海に飲まれたか。想い叶わぬ別れに遭遇したとき、どれほど死を考えたか。誰もそれを知らないではないか。何が気丈か。私は絶妙なバランスの上に立っているのだ。家族すらもそれを知らない。
人間とは、皆自らの先入観で考える。私がいつも感情豊かで、ぼんやりと、眠そうにしているから、何事も気に病まず、飄々と受け流す、そのように考える。そして、私の眼前で「こいつは大丈夫だから」などと宣う。だから私は誰も信じてなどいない。
当然、ここで一つの疑問が覗く。自己を見せて仕舞えば良いのではないか。それは出来ない。弱みを見せるのは、男として恥である。いや、オスとして。動物として。生存本能にかけて、私はそれが出来ない。
それに、このような性格をしている方が、社会的にメリットも大きい。繊細な男というのは、どうにも疎まれやすい。弟気質で、人を楽しませるような人間の方が、社会的地位の確保という面では有用に働く。故に、この表象を捨てようなどとも思わない。
それでも事実として、誰も私のことを見ていないということが導き出せる。故に私は誰も信じない。私の本質を知らぬ人間に、何が出来ようか。故に私は誰かに何かを相談することをしない。それだけ。
そして、誰かが見てくれる関係性、私はそういうものに、焦がれるほどの夢を見る。この地球上にそんなものは存在しない、それは知っている。それでも、あくがれ出るほどに、求めている。
ああ、実際、あくがれ出てしまったかも。
なんというか、以前述べたことと矛盾しているような気もするが、まあ良い。私は三日前に言ったことすら覚えていない。今こう考えているのだから、これが今の私の考えなのだ。