まどどブログ

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2021.11.16 音楽について

2021.11.16

 

 実は今日も特に書きたいことがない。最近は音楽の海に浸ってしまっていて、あまり文章に沈めないのだ。

 ああそうだ。今日は音楽について記そう。

 

  • 音楽という表現手法

 音楽は良い。音楽は小説と似ている。まず題名。題名はその作品の姿のようなものである。我々は題名から、その作品の容姿を伺う。

 そして、我々はその作品に入り込む。作品の持つ物語に触れる。物語である。音楽とて、物語を持つ。小説は言葉でそれを表し、音楽は旋律でそれを表現する。旋律である。誰しも思ったことがあるのではなかろうか。ああ、なんてこの曲は心に染み込むのであろうか、と。それが彼らの物語である。ピアノの音階。ベースの躍動。ギターの移ろい。歌手の儚げ。その調和によって、彼らは物語を主張する。そして、我々はそれに移入して、心を委ねる。

 当然、歌詞もその中の重要なファクターである。しかし、歌詞はあくまで裏方であって、語部ではない。歌が無ければ歌詞はないだろう。旋律あってこその歌詞である。それに、楽曲の歌詞というものは、概ね韻が重視されている。韻とは、旋律そのものではないか。旋律によって、我々の感情は移ろい、物語を視る。

 

  • 感情移入という要

 そう、小説であろうと、音楽であろうと、感情移入こそが肝要である。小説で感情移入出来なければ、どうなるか。単なる情報の羅列であろう。例えば登場人物が親愛なる友人を亡くし、悲嘆に暮れている場面。だから何だ。それは紙面の中で展開されているものであり、あくまでフィクション。おとぎ話。現実の我々とは何の連関もない。ただ、文字が視線をかすめて通り過ぎる。それだけ。

 しかし、現実には、そうならない作品もある。これは我々が、その世界に入り込んでいるから。するとどうなるか。その登場人物の感情が、我々の中に浸透する。浸透して、我々と同調する。いや、我々が同調する、という方が適切か。とにかく、我々は現世を乗り越えて、その世界と調和して溶ける。

 これは音楽も同じであろう。音楽とて、言って仕舞えば単なるノイズ。それをどう感じるかは、受け手次第。至極当然ではあるが、そもそも、表現とはこれを無くしては成立し得ないものである、ということを認識しなければならない。音楽は、旋律によってそれを発生させる。

 

  • 音楽の特異性

 音楽は小説と似ている。しかし、決定的に異なる部分もある。それは、音楽とは、私たちの物語でもあるということ。

 小説は、その性質上、その独自の世界をどうしても主張してしまう。当然、我々の願望や欲望を反映はしているものの、それは小説の世界を基軸として成立しているものであり、我々の世界が併存しているとは言い難い。しかし、音楽は、彼らの物語でもあり、同時に、我々の世界でもある。

 例えば、別れを恨み、悲しむような楽曲が存在したとする。これに我々は、どうしても自らの別れを重ねる。曲が想定している別れは、もしかしたら友人かもしれない。家族かもしれない。異性かもしれない。しかし、我々は我々の別れを重ねる。そして、その世界に浸る。ああ、あのときこうしていなければ。こうしていればよかったのか。帰ってこないのか。なんて、数多なる悔恨と憧憬の中で、音楽の中に、また深く沈む。それを併存できるのが、音楽であると私は思う。

 

 故に私は音楽を愛している。世界を持ち、顔を持ち、それでいて私さえも受け入れる。それが音楽であり、私の最後の砦なのだから。

 ああ、作曲家になろう、などと幾度考えたことか。音楽は美しい。美しい音楽は、世界を美しく騙す。幾度志すことを考えても、私にはどうしても、そちらへ行かぬ方が良いと、思えてしまうのだ。

 才がないのは、まあ、それはそうかもしれない。旋律の浮かんだ試しがない。それは致命的である。ただでさえ才の薄い表現方面。もはや致命的である。それに知識もない。しかし、これらが大きな理由であるわけでもない。才がないから諦める、知識がないから諦める、という安直な発想では、きっと作家などとうの昔に諦めている。絵など、もはや触れようとも思わないことであろう。

 きっと最大の理由は、たぶん、音楽が最後の砦だから。表現がどれほどの苦しみか、この何も実現していない段階ですら、意識の平面にまで上ってきている。音楽にまで苦しみを見出して仕舞えば、いったい、私に何が残るというのか。きっとそのとき、私はほんとうに、この世界が砂漠のように思えてしまうだろう。

 音楽は、美しい。美しいからこそ、ただ享受する側に位置していたい。美しさとは、外観なのだから。

 

  • 補遺:題名のかしこさ

 題名は重要である。言うなればその作品を化粧付けるものであり、色を付けるものであり、朱雀門である。考えても見てほしい。朱雀門の疎かな都など、誰が憧れようか。朱雀門が美しく、威厳に満ち溢れているからこそ、その都は都としての光を放つ。題名が陳腐であれば——いわゆる「ネット小説」は概ねこれに該当するが——その作品も陳腐であり、題名が高貴であれば、その作品もやむごとなくあらせられるのだ。

 私は基本的に題名の純粋な作品を嫌悪しているし、自らのものはきよげなるよう心がけている。そうなっているかどうかは、別として。