まどどブログ

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2021.11.17 馴れ合いの腐敗臭について

2021.11.17

 

 一日中予定のある日、このルーティンをどうすべきか、考えていなかった。まあ、このように帰宅後、時間を見つけて記すのが良いであろう。たった一千字でも良い。継続こそ重要なのだ。

 私は思う。例えば歯磨きは本来、人間の生存に必要ない習慣のはずである。しかし人間はそのようにする。それは幼い頃からの継続があるから。物心すらままならぬ、その時分から、我々は歯磨きをさせられる。毎日欠かさず、ときには親に怒鳴られながら、歯磨きをする。その結果、我々は歯磨きという習慣を会得する。

 きっと、多くの習慣とはそのように身に付く。であれば、これも習慣になるはずなのだ。歯磨きや洗顔などと同様の、生活にあって当たり前のような習慣に。そのためには、どんな状況にあっても、継続。継続こそ、意義なのだ。

 

  • 馴れ合いの無益さ

 私は馴れ合いが嫌いである。この世で最も嫌悪する習性の一つと言おう。何故か。それは無益の一言に尽きる。馴れ合いは完全に無益の部類に入る。Aってさ、頭良いよね。え、そんなことないよ、B君の方が頭良いって。いや、それこそそんなことないよ、だって……だから、Aのほうが頭良いよ。これが永遠と繰り返される。冗談のように思えるかもしれない。冗談ではない。これは現実に存在している。これほど滑稽じみたものではないにせよ、同根のものはこの世に腐るほど生えている。錯視体を三次元世界に光臨せしめようとでもしているのか?

 馴れ合いとは、この延長線である。お互いが自身を卑下し、相手を高める。これが馴れ合い。私は馴れ合いが嫌いである。その腐敗臭に鼻が落ちてしまいそうで、魂すら穢れる。

 なぜ無益か。五秒でも考えればわかる。何を生み出すというのか、己を下げて相手を上げて、繰り返す。繰り返して、いったい何が生まれるというのか。馴れ合いの場面において、相手の欠点を指摘するし、改善を促す、というポジティヴな側面はまず無い。限られた長所を、最大限延べ棒で、蕎麦でも打つのかと言わんばかりに、平たく引き伸ばす。要するに、馴れ合いの範疇に、相手をより善い姿へと高めよう、という本質的な思いやりは存在しない。偽善である。少なくとも私には、偽善に何一つ意味があるとは思えない。特にこの偽善は酷い。ある意味、相手を徹底的に格下に見ていなければ、生まれ出ない発想であろう。

 ああ、有益なこと、一つくらいはあるかもしれない。相手を褒められて、かつ謙遜も出来る自分に酔いしれる興奮剤。馬鹿げている。そんなあさましい自尊心でしか己を保てない人間こそ、いったいどれほどの価値があろう。おぞましい。気持ち悪い。その薬じみた甘ったるさに、どうして当人は狂わずにいられるのであろうか。私にはそれが不思議で不思議でたまらない。その下らない所業に費やす時間と体力を、他のことに充てる方がよほど楽しいのではないだろうか。プロフィットの乏しさが理解できないのであろうか。意味がわからない。馴れ合う輩を問い詰めたくて仕方がない。

 いや、ほんとうのところ、何故彼らが馴れ合うのかは理解している。人間関係の維持であろう。人間関係を維持するには、そうやってなあなあにしておくのが最も効果的である。そこまでして、維持すべき関係性なのか、彼らは判別できているのだろうか?

 

  • 褒めることは有益だけれど

 私はまっすぐな人間である。当然、褒めることが気持ち悪い、などと言っているのではない。人を褒めることは、用法を正しくすればとても有益に働く。それは、二つの場合が考えられる。

 まず、相手の客観的能力に比して、相手の自信が著しく損なわれている場合である。誰しも経験があるであろう。明らかに優れている相手なのに、自信があまりに乏しく、その能力を活かしきれていない。そのようなとき、客観的能力値を評価するという意味で、相手を褒めるのは適切である。そうして、相手は自らの能力について可視化でき、その能力の活用の方法を真剣に検討できる。このような場合、褒めることは有益であろう。

 また、褒めることによって、相手から何らかのリターンが期待できる場合である。人間というのは、褒められると大抵気を良くする。その結果、発言者側の評価が高まり、より良いリターンを得られる可能性が高まる。このような場合、実利という面で、褒めるという手段は当然有益に働く。

 しかし、馴れ合いはそのどちらにも該当しない。まず褒められた側がそれを概ね否定してしまう点で前者の効用は失われる。また、馴れ合いをするような間柄で圧倒的なリターンを期待できるような場面は想定しにくいので、後者の意味も極めて薄いものとなる。故に、馴れ合いはより無益さを増す。

 

  • 馴れ合いよりも議論

 馴れ合いは無益である。前述したように、馴れ合う限り、お互いにほんとうの意味で高まることなどない。相手をほんとうに大切だと考えているのであれば、議論すべきである。

 Aのここは素晴らしい、しかしここは問題だ、私はこう改善すべきだと思う。確かに言う通りだ、しかし私はこのような考えに基づいている。それについてはどのように向き合えばよいであろうか。それについては、私はこう思っていて……。これをAとB、両者について徹底的に議論すれば良い。その議論によって、両者は自らの像を認識し、より美しい形へと練り変えることが出来る。相手がほんとうに大事ならば、議論すべきなのだ。

 まあ、馴れ合う程度の関係性で、そんなことを求めても酷であろうか。所詮は自らの自尊心を満たすために維持しているだけの、単なる欺瞞なのだから。

 ああ、反吐が出る。私に、少なくとも今の私に、欺瞞は一つも必要ない。表現者というのは、魂が穢されてしまったらおしまいだ。作品が穢れる。ましてその域にすら到達していない私は、まるで赤子のようなのだ。

 

 あまりに忸怩たる思いというか、魂を穢されたことへの悲憤に、勢い余って二千余字殴ってしまった。やれやれ。

 実はこれだけ書いてもまだ怒り収まらぬのだが、これ以上は徹夜モードに突入してしまいそうなので、ここで一旦落ち着きたい。

 クソが。