まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.19(残133日) 親孝行について

2021.11.19

あと132日

 

 休日というのはかくも素晴らしきものであるのか。十四時間睡眠の後に、とくに何をするでもなく、音の渦に飲まれてただ呆然と座り込むこの時間の、なんと至福なことか。その影響で一切頭の回転が見られないのは難点だが。明日はいい加減、何かしら書かなければ。もう一週間になってしまう。

 

  • 親孝行について

 親孝行、という言葉がある。親には養育してくれた恩があるのだから、しっかり恩返しをしてあげよう、というのが大きな趣旨であると私は認識している。要するに、養育に要したコストについてリターンを与える、という意味であろう。

 私は最近、この概念についてこう思うようになった。親孝行とは、いつまで続ければ良いのであろうか。親に対して一定の忠義を見せることは、その存在無くして自らの存在がなかったという観点で、当然為すべきことではある。しかし、自分の人生は自分の人生である。親孝行ばかり考えて、自分の人生をないがしろにして仕舞えば、それは不幸である。例えば、自分には本来このような生き方をしたい。しかし、その道はあまりに不安定で確実に親への恩返しが叶わない。また、親としては、安定した道を進むほうが安心できる。故に、親のことを考え、後者の安定を選ぶ。それは不幸である。

 では、どの程度の親孝行が望ましいのか。そもそも親孝行とは何か。

 まず親孝行について、私は親によって為される要因ではなく、子の意志だと考えている。そもそも、子は生まれ出る前にそれを望まない。何も反出生主義的な考えではなく、単純に子は無であったのだから、生前に何かしらの意思を持つことはあり得ない。子の生は、快楽であったり、家族計画であったり、両親の何かしらの要因によって発生したものである。つまり、親の勝手だ。親の勝手に対して、子が十分に配慮する必要などない。親孝行するかどうかは、子の判断に委ねられる。親にお世話になって、その分だけ十分に恩返しをしたいと思うのであれば生涯していれば良いし、その価値がないと考えるのならばしなければ良い。少なくとも、その判断は親によるものではない。親孝行という概念によって何か不利益を被ったとしても、それは子自身の責任である。

 つまり、適切な親孝行とは、その子の納得できる範囲でしか無い。その子が親の意向にすべて従うことを親孝行だと捉えるのであれば、そのようにすれば良い。ある程度の誠意を見せつつも、親の思し召しに逆らいたいのであれば、そうすれば良い。それは子の自由である。親に従うことで生活を保証される、とか、そのような家庭的環境も千差万別であろう。すべて視野に入れて、己のメリットを最大化するような選択をすれば良い。

 

  • 私の親孝行

 上記を踏まえて、私は親孝行について、このように考える。

 私の中で、親孝行とは、金銭的援助への対価としてのサービスだと考えている。これは自身の生活を保証しているのが親、ということを念頭に置いている。学生時代が想像しやすいであろう。親の資金によって、生活しているという状況。その場合、対価として、サービスを提供するのが望ましい。また、下手に逆らえば、現状の生活を剥奪される可能性すらある。そのリスクを選んでも良いと思うのであれば大いに反乱を起こすべきであるが、大抵の人間にとって、そこまでのものではなかろう。であれば、金銭的見返りとしてのサービス提供は欠かせない。

 この考えに基づけば、直接的な庇護下にあるうちは——つまり社会に出るまでは——親の意向に従うべきである。そして、社会に出て自身の生計が安定してきたら、自由に生きるのが良いであろう。

 

 今日の記事は酷い。論理展開もメチャクチャだし、言葉選びも貧弱に過ぎる。やはり寝過ぎは良くないか。