まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.20(残132日) 天才について

2021.11.20

あと132日

 

 成る程、確かに疲れとは心の領域のものであるらしい。疲れていない、これは甘えだ、そう言い聞かせれば、いくらでも身体を行使できる。しかし、糸が途切れて仕舞えば、その反動はより大きく現れる。

 人間というのは上手く出来ているものだ。天の与えしそれぞれの能力値から、大きく離れることなど出来ない。どこかで無理をすれば、必ずどこかで祟りが訪れる。そして、それぞれのスペックに収斂する。

 

  • 天才について

 私は生まれ育った環境のせいか、天才というものを何人か見てきた。いわゆる地元の名士とか、馴れ合いによくある「お前天才だよな」とか、そういう狭い世界の天才ではない。客観的な実績を伴った、凡百の我々とは一線を画する、そういう天才である。

 彼らの共通項は少ない。彼らは人間であるから性格も異なるし、天才とされる領域もそれぞれ異なる。それに、皆、話している限り、普通の人間なのだ。普通に学校に通い、普通に会話し、普通に笑う。ほんとうにどうでもいいことでも彼らは笑う。よく作品であるような、理解に耐え難い天才というのは、むしろ稀ではなかろうか。実際の天才とは、あくまで普通に生きていれば、普通の人間であるように思える。無論、その片鱗を見せることがあることにはあるが、その機会はごく僅かであった。

 しかし、私が観察する中で、彼らには一つだけ、共通しているものがある。それは、謙虚であること。驕り高ぶっているような天才を、少なくとも私は見たことがない。彼らはあくまで、我々と何も変わらずに話す。我々が彼らから見れば的外れなことを言っても穏やかに指摘してくれるし、教えを請えば快諾してくれる。彼らはどこまでも謙虚なのだ。

 

  • 驕りというコンプレックス

 それは何故か。恐らく、他者に興味がないためであろう。

 そもそも驕りとは、コンプレックスから来ていると考えている。他者と比較して、自分が優れていると判断し、それを誇示して認めさせる。そういう、自らへの劣等感を克服したいがための所業ではなかろうか。要するに、威張っている人間とは概ね劣等感に苛まれている哀れな子羊たちなのである。可愛げすら覚える。職場で怒鳴り散らしている中年男性を見かけたら、哀れんであげてほしい。

 天才にはそれがない。自らの優位性は客観的な実績で明らかなのであるから、それをわざわざ認めさせる必要もない。ただ、自己に向き合って、その能力を高めていれば良い。優位性などというものは、勝手に付いてくる。故に、謙虚な姿勢となる。私は天才ではないので、よくわからない。しかし、実際のところ、そういうものではなかろうか。

 人間は多かれ少なかれ、鎖の種族である。どうしても他者と比較して、自らの立ち位置を求めてしまう。その中で天才とは、他者に興味を持つ必要もないほど、正確に言えば他者の方から勝手に自らの立ち位置を証明してくれるほど、己の才能が優れている人間のことを指すのではなかろうか。

 

  • 天才から突き放されぬには

 さて、我々は天才にはどう足掻いても変化できない。無論、時間を掛ければ、同じ境地に辿り着くことくらいなら出来るかもしれない。例えば天才が十年やって成就した何かを、我々は百年で成す。しかし、百年のうちに、天才は我々の千年分を成す。つまり、天才と並ぶことは難しい。個人的な願望としては、天才に移ろうことすら可能でありたいと思うが、現実は厳しい。

 この場合、我々が考えるべきは、如何にして天才の後を追うか、この一点に尽きる。並ぶことが難しいのであれば、せめて影を踏んで進んでいたい。では、どうすれば。

 私は謙虚であるべきだと考える。天才は謙虚である。であれば、その姿勢を我々も見習う。謙虚であれば、努力などは自然と付いてくる。とにかく謙虚であり続ける。

 驕ってはならない。驕りというのはつまり、現状の自らを顕示することに注力してしまうことである。その最中には成長がない。自らを主張すればするほど、自身の才はその場で立ち止まる。その間も、天才は先へ先へと急ぐ。我々がどうでも良い劣等感に支配されていようがなかろうが、お構いなしである。

 つまり、謙虚であれ。驕るなかれ。これが肝要であると私は考える。驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。古人も言っているであろう。