2021.11.21
あと131日
やっと反動を乗り越えたような気がする。いやはや、私の身体はこの二年間で貧弱になってしまったようだ。たかだか数日間だけ短時間睡眠になっただけで、二日間、いや三日間もくたばってしまうとは。なんとも情けない。
体力づくりも、表現には欠かせない重要な要素なのではないだろうか、などと思ってみたりもする。
- 滑稽な夢追人
私は夢追人を嘲笑うのが大好きである。もはや趣味と言っても良い。例えば起業家志望がSNSで群がっていて、「きっと十年後は、高みにいる。俺らなら出来る。」とか、眩しすぎて痛みすら覚える、こんな台詞を積み重ねて、お互いを鼓舞し合う。そういう場面を採集して肴にするのがとても心地よい。楽しいのだ。幼い頃のゲームを思い起こさせる。成長すれば成長するほど、痺れるほどの快楽というものは少なくなっていく。故に、こういうものにそれを見出すしかない。
なぜ楽しいか。ここが肝心なところである。大したことのない人間、何も成すことすら出来ていない人間が、偉そうにどうでもいいことを、粋がって声高に主張する。彼らの大半はフリーターに行き着く。その現実が見えていない。見えていないからこそ、まるで自らが優れた社長であるかのように、ご高説を垂れ流す。そのギャップに、私は飽くことのない快感を覚えるのだ。
- 紅葉を愛する我々
これは何も、私に限った趣味ではないと思う。皆、紅葉が好きであろう。
紅葉とは、美しき死である。葉は命を燃やして死ぬ。その色が美しいから、その色に生命の眠りと世界の移動を感じるから、我々は紅葉を愛する。散りゆく様に趣を見出したりする。
能力の伴わない夢追人とて、同じことである。彼らは命を燃やしている。そしてやがて朽ちる。起業家を志すものの大半はフリーターになる。
何もフリーターが悪いと言っているのではない。私とて、恐らくいずれ労働に耐えられず、定義上はフリーターになる。フリーターは——少なくとも上辺で——労働の軛から解放されている。それだって、立派な生き方ではないか。少なくとも、あらゆるものに雁字搦めにされていることすら気づかず、労働に支配されるよりかは、よほど人間らしい生き方と言えよう。
私が興奮を覚えるのは、そこではない。高らかに、上場して億万長者になる、などと言った途方も無い夢から、単なるどうでもいい存在へと落ちていく、その落葉が、私には何ともたまらなくいとおしいのだ。
挫折しそうな人間。それを鼓舞する人間。ヴィジョンについて滔々と語る人間。一山当ててやる、と意気込む人間。
ああ、世の中とは、なんと道楽に満ちていることか!
きっと何者にもなれない、それすら気づかず、気づくことも出来ず、ただ足掻く者の炎よ、命の輝きよ!
- つまらぬ夢追人
言うまでもないが、私は夢追人すべてに活路を見出しているのではない。面白くない者とている。それは二種類。
まず、実力のある者。実力がある人間というのは、夢に対しても説得力が付加される。つまり、落葉せずに、そのまま色づいてしまう可能性が高い。趣が果たしてここにあろうか。散らぬ葉に風情を付け足すほど、私は風流人でもない。そういう、実力のある人間は、素直に応援したくなる。
次に、謙虚な者。をかしの人間とは、大言壮語だから良いのである。謙虚なのはすごきことである。夢を追っているが、かたや、自分の実力も知っていて、自らの立ち位置をしっかり理解している。それではつまらない。素直に頑張ってほしい。それに、昨日述べたように、謙虚な人間ほど、圧倒的に優れていることも多い。
そう、私は夢を追う人間を基本的に応援している。しかし、実力を理解できないような人間にはその資格がないし、私はそれが大好物、という話である。
- かく言う私も
かく言う私も、現状では「夢追人」である。それに、残念ながら実力も伴っていない。才能も無ければ体力もないし、そもそも意欲もない。そして、こうやって偉そうにどうでも良いことを騙っている。私は、恐らく客観的に見れば、滑稽な部類に入るだろう。
まあ、人笑われになるのは良い。私とて楽しませてもらっているのだから、人にもそれを還元しなければ不公平である。
ある程度は謙虚に生きたい、と考えてはいるものの、どうであろうか。どうにも私は自己顕示欲が強いので、抑えられているのかどうか、自信がない。
とりあえず、私の中で謙虚とは「私は誰かよりも確実に劣っている」と認識するところから始まると思っている。周囲などとの比較ではなく、任意の存在。このように考えれば、周囲がどのような人間であろうと、それと比較することも無く、何かしら絶対的な存在との比較になり、すべての行動が謙虚に結びつくような気もする。宗教に似たような思考であろう。
長くなりそうだ。謙虚についてはまた後日考えるとしようか。