まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.22(残130日) 滑稽について、私の価値観の根底について

2021.11.22

あと130日

 

 だいぶ元気になってきた。我ながら可愛いものだ。寝て、肉と葉物を大量に摂取して、自分の世界に浸っていれば、自ずと元気になってくるとは。

 そういえば、このブログは、一体私が誰なのか、見る人が見れば直ぐにわかるようになっている。確かに人に見せない部分も往々にして存在するが、大抵は、普段から主張していることの連鎖である。隠そうともしていない。

 だから何だということでもないが、いつかは親しき者に知られてしまうんだろうなあ、と思いながら記している。まあ、そう近い話でもないだろう。

 

  • 私の滑稽について

 昨日は、夢追人にもひたすらに面白おかしい存在がいる、と述べた。ふと思った。これは何も夢追人に限らない。私が滑稽と感じる者、それは分不相応な者である。

 身の丈に合わない何か——例えば夢や金—–—を追いかける。それはおよそ、破滅を意味する。破滅するともわからずに突っ走り、そして壊れる。その炎が、私には何とも煌めいて見える。まるで恒星の終わりを拝んでいるような気分だ。私が滑稽に思うのはそういう部類であったのだ。何とも単純な話である。

 

 そういえば、私の価値観の源の部分について殆ど触れる機会もなかったような気がするので、ここで整理しておきたい。私は主に、二つを重用している。単純化損益勘定である。

 前者について。これはあらゆる事象について、一言で説明する。世の中の事象とは、学術的で崇高なものを除いて、概ねそれぞれ一言で説明できると考えている。例えば紅葉が美しいのは死に哀愁を覚えるからであるし、滑稽に思うのは分不相応が招く破滅である。このように、あらゆる事柄を一言で簡潔に完結させる。これが私の中ではかなり重要な部位を占めている。世の中に、あれやこれやと言わなければならない事象は限りなく少ないのだ。仮に、あらゆる事象に複雑な論理が存在したとすれば、それを享受できる人間はごく僅かになってしまう。しかしそうではない。人間は当然の如く子供を生産するし、当たり前のように死を受け入れる。

 後者について。人間は基本的に自身の効用を最大化すると考える。これは何も物質を伴った事項に限らない。例えば電車内で老人に席を譲る。親や孫の老後の面倒を見る。そうすることによって自身の罪悪感が薄れ気分が良くなる。そのような意味で、自己の効用を最大化しているのである。そもそも、直接的な利益にならない他者の世話など、本来ならば必要ない。それをしてしまうのは、自身にとってそれが、見捨てるよりも間接的利益として反映されるが故だと考える。

 これを踏まえて、私は基本的に、これがどのように私のメリットになるのか、それが費用対効果として優れているのか、考えている。例えば飲み会。これに参加することで数千円を失うが、人間関係は持続する。あるいは深まるかもしれない。そして、参加者は比較的社会的地位の高い人間で、コネクションを維持しておくことは将来有益に働く可能性が高い。それは数千円のコストを遥かに上回る期待値として存在している。そのように判断できるとき、私は飲み会に参加する。大したプロフィットが見込めない場合は参加しない。これをあらゆる行事に当てはめる。無論、私は純情な少年なので、たまに「楽しそう」とか適当な理由で参加してしまうこともあるが、そのときは激しく自責の念に駆られる。

 当然、コストカットにも抜かりはない。頻繁に開催される飲み会であれば、適当な理由を付けて、二回に一回など、ある程度の頻度で参加する。こうして、高いプロフィットを維持したまま、コストカットを実現する。このようにして、私は人生を可視化している。

 

  • 二つの根底:美

 なぜこのような価値観に基づくことを選択したのか。それは、美しいからである。この世界すべてが、簡潔に、清潔に、凛々しく並び立てられているとしたら。なんと美しいことか。

 冬の丸の内を見たことはあるだろうか。以前、蠢く大都市の中心、丸の内へと赴く機会があった。私は感動した。ああ、これほどまでに透き通っていて、正しく、荘厳に建物を設置できるものなのだろうか。すべてが威厳という威厳を放っている。流石に皇居とはこのような朱雀門を持つのだ、と私はそのとき、強く認識したように、今となっては思える。東京が大嫌いな私でも、これと、中央環状線から見下ろす江戸川は、まさしく筆舌に尽くしがたい。冬が良い。夏の東京は執拗で、興ざめである。

 この価値観は、それを世界にも広げようという試みでもある。質素な言葉という柱を私の眼前に、十字に並び立て、世界という冬の丸の内を心に映し出す。私はそんな、美しい世界を愛している。

 私は、混沌としているものよりも、こざっぱりとしていて、清潔で、透き通っているものを美しく思うらしい。ああ、私の美とは、もしかしてこのようなものであろうか。腑に落ちた。

 

 ところで、友人に「お前って小者っぽいよね」と言われてしまった。こんなことばかり考えているからであろうか。それでも、やはり説明可能な世界の方が美しいと、私は感じる。

 ちなみに、最近まで人との会話に関して価値が極限まで下がっており、会うことすら厭わしくなっていたが、知的な会話は自らを活性化させるという事実に気づいてから、そのような人間とは積極的に会うようにしている。コストとの相談で。金も無限ではないし、労働を避けること、そして表現に時間を費やすことが現状の至上命題である。

 まあ、普通にサボっているわけだが。まだまだ私は甘ちゃんである。そうだな、今度は、何に大きなメリットを見出しているのか、これについて整理しても良いかもしれない。