まどどブログ

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2021.11.23(残129日) 謙虚について①/謙虚の源泉について

2021.11.23

あと129日

 

 あと129日とは言っているものの、今日はもう既に終わる。今日は買い物に出かけていたのだ。少しだけ服を調達した。

 毎日毎日同じ服で良い、と私は正直考えている。服に気を使う時間と労力ははっきり言って無駄である。ある程度、受け入れられて、清潔感のある服装であれば、誰も文句など言わないであろう。そういう服を複数着買って着れば、何ら問題などない。

 が、それに気づいたのはつい先日。「流行」に気を使っていた私の名残が、まだまだクローゼットには眠っている。擦り切れるまではそれに見合うような服を着るのが、道理というものである。

 

 できれば、私は十九世紀の英国紳士のような服装をしたい。あるいは、モダンボーイのような。しかし、どうにもまだ出来そうにもない。それに充てる金がないのだ。

 

  • 謙虚の源泉:劣等感の受容

 私は謙虚に生きるのが良いとした。しかし、そもそも謙虚とは何であろうか。それについて、私はまだ触れていなかった。

 謙虚とは、一般に自らの能力やステータスなどを誇示せず、奥ゆかしく振る舞うことについて言うのだと解している。そして、これは、少なくとも日本人にとって、美徳とされているようにも感じる。では、謙虚の源泉とは一体何であろうか。

 私は先日、謙虚とは「私は誰かよりも確実に劣っている」と認識するところから始まる、と述べた。ここで、周囲の人間としなかったのには、理由がある。例えば、代議士になったとする。代議士ともなれば、周囲の人間は、秘書や官僚含め、すべてが部下か、ないし手駒のようになってしまうであろう。つまり、自身は周囲に比べ、明らかに優越した人間となる。このとき、果たして謙虚で居られるであろうか。難しいであろう。恐らく、周囲と比べているだけでは、尊大な態度を見せてしまうに違いない。

 では、このような立場でも謙虚で居られるのは、なぜか。それは二つあると考える。一つは、立場上そうせざるを得ない。これは例えば天皇が該当する。天皇とは、客観的事実として、日本における頂上である。それでも、天皇が臣下を見下すこともないのは、天皇という立場がそうさせるが故ではなかろうか。天皇は象徴として、国民すべてに広く受け入れられるような存在でなければならない。故に、謙虚という美徳を、否が応でも実行する。その結果として、天皇は謙虚な姿勢を取る。被災者を、同じ目線で見舞われる。

 言うまでもなく、これはごく限られた立場に該当するものである。我々のような平民にも該当するのが、もう一つ。上位互換を常に認識している。つまり、自らが任意の人物よりかは劣っていることを常に認識して、驕ることに意味など無いと悟ることである。殆どの人間には、もはや疑う余地もなく、上位互換が存在する。例えば、私は作家を志しているわけだが、川端康成三島由紀夫伊藤計劃に敵うわけもない。いや、それどころか、無名のネット小説の生産者なんかよりも私は劣っていることであろう。他のものに目を向けたところで、私より優秀な学歴を持つ人間、私より優れた実務能力を持つ人間、そんなものは数も知れず。つまり、私は誰かより、確実に劣っている。このような状況で、なぜ驕り高ぶることなど出来よう。まさに滑稽である。

 これは当然、私だけの事例ではない。断言するが、これは殆どの人間に該当する。この世には優秀な人間など、山ほどいる。在野の人間がそのどれよりも勝っている可能性など、ゼロに近い。自分が最も優秀である、そう思っている人間に、私はいくらでも反例を突きつけられる自信がある。その事実に気づき、受け入れたとき、人間は謙虚という態度を見せる。その事実を拒む者は、コンプレックスに支配され、自己顕示に走る。何とも哀れなことである。

 まとめよう。自らが劣っている。それを受容し、態度として表現する。そのとき、恐らく謙虚とは結晶する。

 

  • 課題:謙虚を持続させるには

 ここまで読んで、あることに気づく。私は一定の人を見下している。自己顕示に勤しむ者。分不相応に発言する者。私はそれらを、確実に軽蔑している。それは謙虚ではない。それでは行けない。謙虚でないということは即ち、周囲に興味関心があるということに繋がる。劣等感を拒もうと必死なのだ。それでは清くない。私は透明で無ければならない。

 では、どのようにすれば謙虚が持続できるのであろうか。それについては、今後も検討を重ねる必要がある。