まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.24(残128日) 俗世からの離脱について

2021.11.24

あと128日

 

 もう十一月も終わりとは。世も末である。

 世も末と言えば、つい先日、私は一区切りを迎えた。正確に言えば、その区切りを実感として受け入れた。流石にプライベートが過ぎるので特段の言及は避けるものの、とにかく、一つの時代が終わったのである。

 私は何だかんだ、今まで俗世から離れられずにいた。誘われれば必ず行ってしまうし、剰え誘いまでした。どうにも、人との関わりが欲しかったのである。それは紛れもなく、私の名残惜しさから来ていた。学生としての生、その香に、どこか飢えていたのである。しかし、もうそれも終わった。私は実感したのだ。私の学生時代は終わった。

 さらに、私は想い人について、ずっと考えていた。それも、もはや自身の中で結論が見えた。あの匂いを忘れるほど心惹かれる人間に出逢うまで、私はずっと胸に抱き続ける。それは束縛などではなく、どう足掻こうと忘れられないのであれば忘れる必要もない、という単純な帰結に拠るものである。忘れるような出来事があれば忘れれば良いし、そうでないなら無理に忘れずとも良い。どうせ彼に会うことは二度とない。そういう、気楽な思考が私にはいちばん合っている。誰とも付き合うこともなく、私の青春時代は果ててしまった。これで良いのか、悪いのか。それはわからない。しかし事実として、青春は終わった。

 とにかく、学生時代と青春時代が終わった。つまり、それは俗世からの離脱を意味する。労働は死であって、決して私の時ではない。これらが、どこまでも濁りきっていて、空虚で、野蛮で、愛すべき私の仮住まいであった。

 もう終わったのだ。誰かが終わらせたのでも、時が終わらせたのでもない。自分の中で、終わってしまった。

 

 このように大言を放ったところで、油断すれば私はまた遊んでしまう。故に、今日は、俗世からの離脱とは即ちどのような行動を指すか、ここに整理したい。

 今日のものは私だけのお伽噺であって、特にプライベートである。仮に読者がいてくれたとしたら、今日の記事は特に読む価値がない。注意されたい。

 

  • 金について

・費用節減

 そもそも現状で私はかなりの金欠である。これ以上の浪費は労働を招く。労働は死である。労働は極力避けなければならない。故に、費用の節減も俗世からの離脱に繋がる。むしろ、これが殆どの要因を為す。俗世と金目は切っても切れない関係なのだ。

 具体的には、以下の遊びと買い物が該当する。これはある種、欲求を満たすためのものであって、無価値と言えば無価値である。その時間を創作に充てれば、金もかかるまい。いや、そもそも創作に充てずとも、家に溢れている遊休資産を使えば、存分に暇潰しになるはずである。

 

  • 遊びに関し

・遊びは基本的に拒絶

 遊ばなければ金の減りようもない。予算の設定を超過するものは慎む。現状にて予定されている遊び。これで、私の俗世はいったんおしまいである。

 

・遊ぶなら費用対効果(特にコスト)を慎重に検討

 遊びには金が掛かる。そもそも、コストを念頭に置く必要があって、その上でリターンについても考慮する。この遊びにはどの程度のコストが必要か。現状で、そのコストを支払う余裕はあるか。その上で、この遊びによって、どのようなリターンが獲得できるか。そのリターンはコストに見合っているか。より良い代替は存在しないか。この順序で、慎重に検討しなければならない。コストあってこそのリターンである。

 

  • 買い物について

・買い物はしない

 私には爆買い癖がある。それは自らの欲求を満たすためだけである場合が多い。買い物の際には、どの程度のコストが必要か。現状で、そのコストを支払う余裕はあるか。それは代替不可能なものか。現状でそれが必要不可欠か。そのコストによって得られるリターンはどのようなものか。そのリターンはコストに適しているか。この順序で、深慮する。

 そして、現状で、焦がれるほど必要なものなど無い。故に、買い物をする必要性は殆どない。必要なものが出てきた場合も、上記の工程で強く考える。

 

  • 表現について

 上記を踏まえて、表現についても述べておく。

 

・表現の間はそれだけに集中

 SNSを見ながら創作する傾向にある。それでは当然それに費やすことのできる時間は減るし、俗世の色が混ざってしまうことによって質も落ちる。創作するとなったら、その作品だけを見つめなければならない。