2021.11.25
あと127日
私はいったい、何がしたいのであろうか。
私は消えるのが怖い。故に遺したい。だから表現者になりたい。しかし、その熱情には明らかに陰りが見える。だからこそ、二週間もの間、無駄にしようとも、特に思うこともないのであろう。
情熱が足りない。モチベーションが足りない。あるいは、そもそも才能が足りない。何かが足りない。足りないからこそ、愛してやまない睡眠と怠惰にかまけてしまう。それでも、睡眠と怠惰の中で人生を終える気もない。
俺はいったい、どうすれば良いのか。わからないからこそ記すのか。答えを探すために記すのか。
誰かが教えてくれるわけでも、客観的な解答が在るわけでもない。俺ははじめて、そういう環境にあるのだ。
とにかく、睡眠不足はよくなさそうだ。
- 俗世の功罪:我を忘れる
俗世からの離脱というものを、私は昨日宣言した。これについては、一日経っても、特に方針を変更する気にならない。俗世——即ち一般的な社会生活——には、功罪ある。それが私の求めるものにそぐわない。故に私はこれを破棄するのである。
俗世の功とは、我を忘れることである。そこに喜怒哀楽は関与しない。例えば友人との交流の間は、とても楽しい。楽しくて止まないであろう。例えば恋慕の最中は、自らを如何に美しく見せるか、そればかり考える。相手のことばかり見つめて、自己を客体として捉える。このときばかりは、そのときばかりは、今自分が何者で、どういう立場で、何をすべきか、そんなことも忘れてしまう。どんな楽しみにあっても、どんな苦しみにあっても、自らのことを忘れる。
- 自己:最も見えない問
なぜこれが功か。己に向き合うことは、人間において解の望めない問だから。何故解が望めないか。見えないから。自己の外の世界とは、どんなことでも明確な形を持つ。無論、難易度の濃薄は確実に存在する。解のない問いもあるだろう。それでも、自己に比べれば、ある程度の正答性は保証されているのではなかろうか。
自己とは、それが無い。正しい答えなど無いのだ。人間は未来予知が出来ない。いや、出来たとしても、己の行為はなぜ実行されるのか、これが果たして「正しい」のか、誰にもわからない。自分にもわからない。その、誰も知らぬ命題を見つけ続けることが、どれほどの狂気か。その狂気から逃れることは、なるほど生存において適切な行為であろう。これが俗世である。
つまり俗世とは、自身から目を逸らすことである。
- 俗世の罪
上記の議論から自明なように、俗世の罪とは我を忘れることである。功も罪も、同じ。しかし、その持つ意味は大きく異なる。自己から逃げること、それは人生から逃げることである。
なぜ私は在るのか。何を為すべきか。私は何を求めるのか。俗世に浸かることは、それを考えないことに等しい。私は以前、知り合いに生きる理由について訪ねた。その者はこう答えた。
「生きる意味などない、死なない理由を考えるだけ」
「死ねないから生きている」
きっとこうなってしまう。漫然と生を消費して、やがて来る死に犯される。こんな乾いた人生になってしまうのだ。
これが俗世である。こうなってしまうことが、私は怖いのだ。私にはきっと、生まれた意義がある。死を討論なしに受け入れることなど出来ない。そう思いたいのだ。しかし、それは答えもない。形すらない。そんな霧を見つめ続ける狂気に、私は実際、耐えられていない。故に、私は俗世に逃げていた。
もう逃げない、などとは言えない。私は弱いから。しかし、少なくとも学生の間は、自由意志によってそのような形が実現できる。せめてあと四ヶ月の命。その限りでも、私は俗世から逃れたいのだ。
俗世はアヘンである。とても幸せで、楽しかった。それでも、終わって仕舞えば、乾いていた。