まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.11.26(残126日) 表現の源泉について

2021.11.26

あと126日

 

 最近気づいたのだ。私は基本的に、同じ環境にずっといるのは向いていない。例えば大学に行き始めて、一ヶ月になる。怠け方を覚えてしまったのだ。家にずっといる。やがて怠ける。同じ環境に身を置くと、やがて飽きる。そしてその中でのサボり方を学習して、そのようにしてしまう。作業が滞る。そうなるのであれば、家にいたほうが、その怠け方の選択肢が多様であるという点でまだマシだ。

 では、どうするか。簡単な話で、サボるようになったときに、環境を変えれば良い。例えば大学に飽きる。家で過ごせばいい。家に飽きる。大学に戻る。それすら飽きる。次はカフェか。このようにして、まるで旅をするように、移ろっていけばよいのだ。そう、私は元々、旅人なのである。日常に旅を求めないほうが不合理というものであろう。

 

  • 私はなぜ表現するのか

 今日は表題の件について議論を深めたい。私は睡眠と怠惰を何よりも愛している。その愛する者たちと決別してまで——ただ布団から離れることを指している——私は表現に向かう。これまで、私はこの源泉について理解していなかった。なぜかわからないけれど、とりあえず書き記す。そのような手法を採っていた。

 しかし、それではモティヴェーションにムラが生じる。作品の量にもムラが出る。私のような駆け出しに必要なのは、とかく量である。質は二の次、まずはアウトプットに慣れ親しむことが肝要であると考えている。そして、量を決定するのは偏に集中力であり、それを引き出すのはモティヴェーションである。故に、これが不明瞭だと、芋づる式に表現の上達も鈍る。それでは困る。私の生は短いのだ。なるべく効率的に実力を伸ばしていきたい。

 これまで、数多この議論を進めてきたと思う。が、現に私は何度か睡眠と怠惰に逆戻りしている。それも一日二日の必要な休息でなく、一週間や二週間と言った、途方も無いスパンである。これは即ち、これまでの議論では説明しきれていないことを意味する。

 故に、今日はそれについて、今一度整理するとともに、新たな発見を加え、議論を確固たるものとしたい。

 ちなみに、以下のパーセンテージは「どの程度の正確性で説明できているか」を示すものである。決して源泉に占める割合ではない。

 

  • 頭の中の世界を表現したいから:30%

 これは以前述べたもので、私の中で花咲く世界に形を与えたいから、というものである。

 確かに間違ってはいない。表現とはそもそもそういうものであるし、確かに世界が抑えられなくなる、という感覚はどこかにある。しかし、これは的確に私の行動を説明しているわけでもない。これは欲求のレヴェルであって、行動まで至っていない。私ははっきり言って極めて怠惰な人間なので、例えどんなに構想を練ろうとも、布団から起き上がらなければそれで終わってしまう。故に、これは動機ではあっても、行為ではない。

 

  • 遺したいから:50%

 これも以前述べたもので、消滅への恐怖。無価値への悪寒。それ故に作品として私の存在を遺したいから、というものである。

 確かに、恐怖心としてのそれを根強く残っている。私の消滅は途方も無い恐怖である。また、無価値な——代替可能な——存在に堕ちてしまうことにも、戦慄している。それを避けるには、作品という形を保つことが最も効果的であろう。少なくとも作品は遺るし、それを再生産することが出来ないという観点で代替不可能、価値ある存在である。

 しかし、これも行動を後押しするものであって、行動そのものではない。友人と遊んでいるとき、こんなことを思わない。布団で転がっているとき、音楽の海に溺れているとき、こんなことを微塵にも感じない。つまり、これは表現しようという意志を持ったときに使用されるエンジンであって、スターターではない。私が現状で欲しているのはスターターである。エンジンも肝要だが、現状での問題にはならない。

 あれ、でも、スターターとは手段の問題なのではないか。よく寝るとか、俗世を断ち切るとか、環境を変えるとか、それがスターターなのであって、今議論しているのはエンジンなのではないか。

 なんだかよくわからなくなってきてしまった。しかし、この理由がそれほど大きなものに私の中でなっていないのは事実である。

 

  • 存在理由が欲しいから:60%

 これは昨日述べた。私がなぜここに生まれ落ちたのか、私はどうすべきなのか、何を為すべきか、それを知りたいから、というものである。

 もう疲れてきてしまったので一言だけ言いたい。これも確かに強い理由ではある。しかし、これを思い続けても、決して机には向かわない。布団の中では、それこそが存在理由になる。

 

  • この世への憎悪を具現化したいから:10%

 私はこの世が憎い。その憎悪を、作品として現したいから、というものである。

 確かに、この世は憎い。醜いものが跋扈していて、大変に気分が悪い。しかし、布団の中でこれを思うわけもないし、だいたい、私は自分以外に興味がない。たまにそういう汚物に触れて気分を害することはあっても、自室にいて、本や音楽と向き合っている間はその醜さに触れることもない。故に、これはそもそも理由として薄い。

 

  • 疲れていないから:100%

 単純に、脳と身体がずっと座ってパソコンに向かい続けて、表現を絞り出すという作業に使役できる程度に元気だから。

 いや、これなんではなかろうか。上記の理由は、確かにすべて何かしらの源泉として作用している。というより、上記の理由だけで表現の理由は満たされている。しかし、現実として、そもそもずっと座って何かしているのは私の自然状態でない。そのためには、一定以上の体力を要する。それに、脳を使役するのも疲れる。椅子も極限まで座りにくい。座っているだけで体力を使う。

 つまり、既に表現する理由は成就していて、体力のあるときにそれが現実として浮き上がる。これが私の表現なのではないだろうか。

 私は残念ながら、寝食を忘れて何かをするほど情熱的な人間ではない。いや、本来はそうすべきなのかもしれないが、そういうのはそもそも義務感で達成できるものでもなかろう。少なくとも現状でそれは難しい。

 

  • 飽きていないから:100%

 表現に飽きていないから。これだ。私はとても飽きやすい性格をしている。その実、これほど深く慕っている布団も音楽も、稀に飽きるときが来る。本も飽きる。人にも飽きる。表現もその一つなのであろう。飽きたら捨てるし、飽きなければ向き合う。それだけなのではなかろうか。

 

  • 今後はどうすべきか

 さて、これを踏まえて、今後はどうすべきか。

 実は単純で、予定を減らせばよいのではないか。創作への意志は確かにある。しかし私は凡人なので、それに対して体力が追いつかない。であれば、俗世との接触を減らす。これが、当面の間は効果的であるような気もする。

  そして、飽きたら気分転換をする。金のかからない趣味ならば、カラオケであろうか。あとはひたすら音楽に身を埋めても良いし、布団で一日中寝ていても良いかもしれない。とにかく、表現から離れる。私が飽きやすいのは、もはや物心ついた頃からであり、どうしようもない。根本を治療するのではなく、対処療法である。飽きている期間を極限まで——出来れば一日に——減らすことが、当面の課題であろう。

 あとはたまにこのブログを見返す。思い出すのだ。なにが私を表現に向かわせるのか。たまに忘れてしまう。

 

 結局、方法論に終始してしまった。現状で根底は確立していると判断したが、これで良いのであろうか。また年内に振り返ることとしたい。