2021.11.27
あと125日
家にいた方が創作の捗ることに気づいてしまった。以前であれば大学のほうがことさらに筆の流暢であったのに、これは一体如何なることか。
一つ思ったのだ。外の世界に触れてしまうこと。これが大いに表現を阻害してしまうのではないかと。言うまでもなく、人間とは醜いし、また外の世界とは醜い。それに触れると魂が穢れてしまう。魂の穢れはまるで土砂崩れのように、表現への道筋を塞ぐ。表現とは清らかなものであって、それに穢れの混ざることは出来ない。故に喉頭蓋の閉じるように表現への領域は閉ざされる。故に私の意識の中に現れてこないのである。
即ち、筆の進むときには、大学に行く必要など無いのだ。かたや、私は家にいればいずれ確実にサボる。そのようなときに大学に来て、気分転換を図る。それが好ましいように思われる。
そう、本質は如何にしてサボらずにいるか、如何にして善い表現を為すかである。手段とはその目的を果たすための方便であって、決してそれそのものではないのだ。
- 「多様性」ブームへの疑義
多様性。様々な傾向や性質が観察されること。またその様相。私はこの義について、このように解釈している。Wikipediaの同項目によれば『性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる』らしいが、その原典が何かははっきりしない。脱線だが、極稀にWikipediaの記事をそのまま引っ張ってくるような人間が存在する。人生をコントに見立てているのであろうか。Wikipediaは確かに読み物として優れているし、かなり精度の高いものであることは間違いないが、それでも所詮はネット記事に過ぎない。原典を当たるのに用いるのが良いのであって、それそのものを受け入れるのは言語道断である。
閑話休題。表題の通り、私は多様性に関して、大いに疑義を抱いている。語義そのもの、言葉そのものに対して、ではない。それを用いる人間どもに、である。
昨今はこの「多様性」が一種の流行りであるようで、至るところでこれが主張されている。多様性は社会活動に有益であるとか、営利活動にもプラスの効果をもたらすとか、なんとか。それならコミュニストを投下しろと思わないでもないが、とにかく、多様性はあらゆる部分に浸透を見せている。
私はこの状況が非常に気に食わない。無論、多様性が受け入れられることは喜ばしい。いや、正確に言えば、それが当然の状態なのであって、それに至っていない現状の人間社会が未熟と言わざるを得ない。
そう、私はこの未熟さのもたらす多様性を憎んで止まないのだ。
- 「多様性」の根底に在る「普遍」
多様性。その実、メリットの観点から考えても、このブームは大変に理にかなっている。マイノリティ側としては、多様性を叫ぶことによって自らの権利を認めさせ、社会活動をより円滑に進める。マジョリティ側としては、多様性のもたらす有益性によって自身をさらに富ませる他、弱者救済というエクスタシイに溺れることすら出来る。多様性とは、ウィン・ウィンの関係を孕んでいる。
では私は何が気に食わないか。それは、この「多様性」の根底にあるものが、極めて醜いが故である。考えてみてもほしい。なぜ多様性を唱える必要性があるのか。個々が個々として受け入れられているのであれば、そもそも多様性などという概念は存在しない。ただ個があって、それでおしまい。
現実はそうではない。多様性が唱えられているのは、そうなっていないが故ではなかろうか。まず広い普遍がある。何でも良い。異性愛が最も分かりやすいであろう。人類の殆どは生物として適切に設計されている。しかし、そうでない者もいる。それに外れるものを、「多様性」で受け入れましょうね。そういう論の進め方が、私には極めて不愉快である。
つまり「多様性」とは、個々が個々としてあっても良いよね、という論ではない。仲間外れをなんとか中に留めておこうね、そういう議論でしか無い。つまり、そもそも疎外への意向というのは強く働いていて、その疎外された性質を私たちは慈悲深いから受け入れます、そういう類の物語なのだ。
ああ、なんと憎いことか。拙い語彙で言えば、私はこういう偽善が大嫌いなのだ。善が何かは明確に出来ていないが、偽善とははっきりしている。社会的マスターベーションのことである。
私がマイノリティだから、という愚にもつかない帰結ではない。皆、自らの醜い欲求にも気づかず、当然のように「多様性」を唱えて悦に浸っている、その絵が何とも醜くて、吐き気のするのだ。
追記すれば、そもそも多様性には「社会を破壊しない範囲で」という前提があるのも、極めて優等生の思想で胸焼けする。営利企業にはコミュニストを、政府にはアナーキストを投下することも多様性だと私は思うのだが、それは否定される。つまり、都合の良い「多様性」だけを享受するのである。ダブル・スタンダードではないか?
私はそのような過激な連中に一切同意しかねる。彼らは美しくないから。しかし、美しくないものを破壊することも、また道理に思える。複雑な心持ちである。
- 未熟な社会の産物:多様性
では、お前の中で望ましい社会とは何か。もう先に述べた。私は個々が個々として尊重される社会が望ましい。それは具体的にどのような社会か。個々が干渉しない世界である。
個々が個々の世界を持っていて、それを美しく飾っている。交流は、相手の世界を考慮し、自身の知り得ない範囲——つまり相手の世界そのもの——には深入りしないようにする。そうして、自己の世界を保ったまま、互いが互いにとって有益となるような関係を樹立し、お互いの世界を高め合う。これが、私の考える最も美しい世界である。伊藤計劃氏の『ハーモニー』。その対極に近しいものを、私は仮定している。
今日はもう疲れてきたし、いい加減、創作の方を仕上げたいので、簡略に述べるに留めたい。この世界については、いつか、表現のほうで披露したいと考えている。もしお目にかかる機会があれば、このことを言っていたんだな、と思っていただければ幸いである。
言い忘れていたが、アクセスログから見るに、僅かながら読者の方がいらっしゃるようだ。毎日私の記事を読まれている方がいるのか、それとも人気の記事だけを散発的にご覧になる方が多いのか、それはわからないが、前者を想定して、今後は人に読まれるものを記していきたいと思っている。