まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.02(残120日) 謙虚について②/軽蔑とその昇華について

2021.12.02

あと120日

 

 何度でも言うが、いつでも眠い。なぜ、眠気とはかくも脳に薄い膜を貼ってしまうのであろうか。きっと眠気とは絶縁体である。電気信号を遮断しているのだ。

 今知ったが、シナプスには化学シナプスというものがあり、必ずしも電気信号を伝達しているわけではないらしい。私とてこれに関する情報を数十秒眺めた程度であるが、いやはや、無知とは恐ろしいものである。

 

  • おさらい:謙虚の根源と軽蔑

 さて、いつだったか、一週間程度前であったか、私は謙虚について述べた。謙虚の源泉とは、即ち、周囲への関心を断ち切ること。絶対的な上位互換を規定し、それと比較することによって、己の愚劣さを思い知る。以前は絶対的に優れた人間としたが、神でも良い。いや、そもそも人間は古来より神を想定して、謙虚さを保っていたのであろう。これによって、人間はどのような状況においても、謙虚で居られる。

 そして、私は一つ、問題提起をして終えた。では、周囲に対して軽蔑を向けている状況ではどうなのか。例えば私。私は少なからず、馴れ合う人間、愚かしく罵り合う人間、そういう人間に対して軽蔑の念を抱いている。そして、そういう人間とは周囲に少なからず存在する。では、軽蔑とは、周囲への興味関心そのものではないのか。それは謙虚より遠く離れた概念ではなかろうか。

 今日はこれについて、私なりの解を述べたい。軽蔑は謙虚と混ざらない。しかし、軽蔑は昇華させられる。

 

  • 軽蔑:劣等感の子

 そもそも、軽蔑とは如何なる感情であろうか。軽蔑とは、自らよりも劣っていると思い込んでいる人間に対して感じる、優越感の亜種であると考える。軽蔑とは少なからず、相手を見下すような部分が存在する。それは即ち、己を高く見ているが故に発生する現象である。つまり優越感である。そして優越感とは、劣等感の裏返しである。そもそも己が劣っている、それに対して負い目を感じなければ、己を他者と比較し、優れているなどと空虚な快楽を得ることもないのだから。

 即ち軽蔑は劣等感の子供である。劣等感とは、周囲との比較にほかならない。故に、謙虚とは一切相容れない。謙虚とは周囲からの隔絶である。

 

※補足。自らに比して絶対的に優れている人間が存在するように、自らに比して絶対的に劣っている人間もこの世には存在する。そして、そういう者は、多かれ少なかれ舞台に登場する。それに対してすら謙虚で在るには、周囲との比較などという段に居ることを許されない。周囲との隔絶こそ、謙虚の本質であろう。

 

  • 軽蔑の昇華:無関心

 無論、人間は愚かである。軽蔑から逃れることなど出来ない。しかし、謙虚は、少なくとも周囲からの評価という面で、人生において大いなるメリットをもたらす。故に、どのような場合においても謙虚で在ることが望ましい。では、軽蔑をどのように処理すべきか。

 極めて簡単な話である。軽蔑を、無関心へとすり替えれば良い。即ち、考えなければよいのだ。客観的に分析して、あらゆる側面において自らより劣っていると感じられれば、その人間から学ぶことなど何一つとして存在しない。奇想天外な発想をする、など自らに無いものが一つでもあればまだしも、自身で代替可能な人間に価値など無い。

 故に、考えない。それに対して、何か思いを抱くリソースすら無駄である。そうしているということは、己の中の劣等感が燻っているということに他ならない。それは謙虚への裏切りである。人間は謙虚で無ければならない。

 

  • 脱軽蔑の実証

 さりとて、謙虚は実証である。机上の空論では意味がない。実際の面に落としたとき、どのような方法が考え得るか。

 例えば、こんなものはどうであろうか。軽蔑を抱いた、そう思った途端に、何か他の楽しいことを考える。趣味でも良いし、イヴェントでも良いし、何でも良い。とにかく、自己にとってメリットとなるものを考える。人間とは、すべて習性の動物である。この習性はそのうち、軽蔑そのものを消し去ってくれることであろう。

 これは良い方法を思いついた。我ながらそう思う。今度から実験したい。

 

 

 

 ところで、先日優れた友人と深く話し込んだ。彼の知識量は私の到達できるレヴェルを遥かに超えていた。いや、そのように思えた。語彙と文学の側面で、完敗したが故である。作家を志す人間にとって、また挫折が加わってしまったのだ。しかし、私の知識の勝る部分も、少なからず存在した。そして、それらとは、必ず私の趣味の領域であった。

 つまり、彼と私とで、恐らく知識の総量では大差なくて、興味の赴くものの違いがその差異を表現していた。知識とは即ち、己の興味関心にまとわりつくのであった。いや、作家を目指している人間が語彙と文学について浅学で良いのか、というのも確かであるが。勉強しなければ。

 これについては後日記すかもしれない。