まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.03(残119日) 葬式について

2021.12.03

あと119日

 

 最近、なんとなく自分がどのようなときに疲れている、ないし睡眠不足であると言えるのか、理解した気がする。音楽である。音楽の身に入ってこないとき、私はそのような状態に置かれている。

 そして今も眠い。なぜ。

 

  • 葬式:儀式

 私には思っていることがある。葬式は何故行われるのか。

 亡くなった者はただ消える。魂など存在しない。仮にそのような現代科学によって説明できないものが存在していれば、不可解な事象が遥かに多く観測されるはずである。しかし、現にそうはなっていない。故に、魂の存在を否定するのが合理的な判断であろう。

 魂が無いのだから、遺体とはただ朽ちるだけの物体である。その物体を我々は弔う。時には涙する。単なる物体に。ただ外面が故人と合致していて、ただ故人が保有していただけのもの。そう割り切って、亡くなったと当時に焼くことすら可能であろう。しかし、多くの人間はそうしない。葬式という儀式を通す。では、何故か。

 

  • 願望の投影

 恐らく、二つ。一つ、死を畏怖しているから。魂などと言って、ありもしない黄泉の国を妄想しているのは、ひとえに自らもまた同様の運命に至るが故であろう。自らの人格が消失する。いや、自らそのものが霧散する。それに対して、恐怖とまでは言わずとも、畏怖は抱く。故に、故人に人格を見出し、魂を見出し、死後の世界を見出す。そのために、葬式などという仰々しい儀式を行う。宗教と同様である。故人も喜んでいることでしょう。そんな馬鹿な話があるか。故人は喜ばない。それはお前自身の願望である。

 

  • 殺人の緩和療法

 一つ、周囲にとって生物と物体の分別する機会が必要だから。死によって消え去ったとはいえ、人間だったものは物体としてそこに安置されている。そして、それはまるで生前の眠りと酷似した姿を見せる。それを唐突に焼くことなど、並大抵の人間には難しい。殺人と同程度の感触を抱くことであろう。その罪悪、別れがたさ、同族を焼くことへの嫌悪。これらを緩和するために、葬式という特異点を設ける。これは物体である、これは焼いても良い、そういう認識を徹底的に叩き込む。そして、まるで眠っているかのような人物は単なる肉片と化し、最終的には骨と化す。

 ちなみに、医療の未発達であった時代には、死亡を宣告されても息を吹き返すことが多々あったらしい。その経過観察のために、葬式というイヴェントを設けた可能性も考えられる。

 

  • 葬式:生物の罪

 つまり、葬式とは、人間の死というイヴェントに対する忌避に他ならない。死んでも人格は魂として遺る。故人は魂として抜け出た。目の前の眠れる者は単なる肉。焼いても殺人に当たらない。そういう、一種のマインドコントロールが、葬式なのであろう。

 これは生物の罪である。生物は死から逃れられない。しかし、生存本能として、死を畏れる。故に、他者の死を緩和し、直接的な衝突を回避する。なんとも生物の逃れがたい運命である。

 

 率直に申せば、私は葬式がとても苦手である。死が怖いから。遺体とは死そのものである。例え親族であっても、私はそれを目の当たりにするのが怖い。私もいずれこうなる、そのことがとても怖いから。