2021.12.04
あと118日
人間とは思ったより他者の評価を気にするようで、例えば何かイヴェントがあって、そこに誘うときにも、「お前が来てくれれば皆喜ぶ」といった物言いをするようだ。お門違いも甚だしい。イヴェントに行くか否かはたった一つ、自己における損益の比較によって決定されるのであって、そこに他者の評価は介在しない。それを勘定に組み込んでいるのは勝手だが、少なくとも私はそうではない。故に、そのようなことを言われたとして、よりイヴェントを楽しめるようになるわけではないのだから、一切そのイヴェントに対する期待値、 expected value は向上しない。
やっとこういうことが思えるようになってきた。以前の私は、他者の目ばかり気にしていたのであった。
- 憎しみの特異:殺人
憎しみとは何か。その実、私もよく理解しているわけではない。辞書を引いても、スーパー大辞林では『憎むこと。』としか書かれていないし、その肝心の「憎む」も『嫌に思う。不快に思う。』との記載しか見られない。
しかし、憎しみとは明らかに他の勘定とは気色を異にしたものであると、私は思う。何故か。憎しみは人を殺すから。殺人を招く稀有な感情の一つが、それである。そもそも殺人とは、コストに比して利益が極めて少ない、この世で最も損失の見込まれる行為の一つである。それを招く、人間をそのような割の合わないものに駆り立てるというのが、そもそも不可解である。
さらに、憎しみは確実に殺す。怒りも人を殺す。しかし、怒りによって、即ち衝動によって人を殺そうとしても、死なない場合は多い。憎しみは確実に殺す。綿密な計画の上で、確実に人を殺す。
憎しみとはそのような感情である。人間の理性を奪うのみならず、その機能を停止させる。そして、憎しみの根源を断つまで、自らの行為を振り返ることもなく、ただ愚鈍に自らを駆動させる。それを断ったとき何が起こるか、そんなことすら考えられない。そんな状態に人間を貶める。これが憎しみである。
- 憎しみの誕生:削がれる痛み
では、憎しみとはどのようなものから生まれ出るのであろうか。これは大層難しい問いである。恐らく、歴史を見れば夥しい数の議論が積み重なっているのであろうが、私には残念ながら知識がない。帰納しようとも、それだけで中編小説くらいなら書けそうだ。
ただ、強いて一つ言うならば、恐らく、自らの求める状態から引き剥がされた、その痛みによって憎しみは生まれるのではないか。憎しみを抱く例として直ぐに思いつくのは、例えば裏切りであろうか。あるいは、理不尽によって家族が引き離される。または、夢の破壊。要は、自らが信じていた、ないし当然のように享受していた、それが何かしらの要因によって破壊され、修復不可能の状態になったとき、その痛みが人間を憎しみに駆り立てる。憎しみとは、そのようにして生を迎えるように思える。
ここで肝要なのは、その破壊の原因になったものが理解できるものであることだ。例えば地震で家族が壊滅したとして、地球に憎しみを抱く者は稀であろう。これが詐欺師であればこそ、人間は憎しみに逃れる。つまり、相手が事物—–人間かもしれない——であることによって、我々はこの感情を胸に宿す。
- 怒りとの違い:種か薪か
では、怒りとは何が異なるか。怒りもよく似ている。相手に対して一矢報いる、そのような点では共通しているのだから。
私が思うに、怒りとは衝動で、憎しみとは病巣である。怒りは火種のようなもので、着火することはあっても、それを持続させようという意志が無ければ直ぐに潰える。どこかで読んだことによれば、怒りは数十秒で忘れることも可能らしい。一方、憎しみは薪である。長期的に理性を奪うものであり、その根源を断つまで永久に持続する。つまり、病巣なのだ。誰かが癒やしてやらねば、その病巣はその宿主から立ち去ることなど無い。
繰り返すが、憎しみは優れた感情と言えない。なぜか。自らの効用が最大化されないから。自身に穴開けた対象を消去するまで、自身のメリットなど度外視した行動を選択し続ける。それは、言うまでもなく不幸であり、また愚かである。
しかし、それを忘れることも、きっとまた難しい。誰かが癒やしてやらねば、憎しみは消えない。私はそう思うのだ。