まどどブログ

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2021.12.05(残117日) 愛について①/愛の源泉について

2021.12.05

あと117日

 

 今日は今日とて、また眠い。なぜこんなにも眠いのか。言葉すら足りず、はらはらと落ちていく。そして私もまた、布団に落ちていくのだ。

 ただ、少しばかり気の紛れることもあった。部屋の模様替えをしたのだ。布団と作業スペースを完全に隔絶した他、新しいスピーカーまで設置した。矢張り新しいものは良い。心躍る。私は精神年齢が低くてあるので、どんなときでも新参のおもちゃを見かけるとどうにもワクワクしてしまう。いやはや、外見も内面と同様にいはけなからましかば、人生は幾分住みよいものにならまし。

 

  • 愛、憎しみ、そして双子

 フロイトは、人間の情動を大別して、エロスとタナトスという用語で定義付けたらしい。フロイトの書物を読んだことがないので、これに関して表層的に認識しているに過ぎないが、どうにもエロスとは生の欲動、タナトスとは死の欲動であり、昨日述べた憎しみは後者に分類されるようだ。では、今日は前者について述べよう。愛である。

 愛とは何か。私は例のごとく、何も知らない。しかし、愛が憎しみの鏡像と定義すれば、比較的容易にその本質を導出できるような気もする。

 昨日の議論について補足したい。憎しみとは、自らが信じていた、ないし当然のように享受していたものが壊されることによって発生すると述べた。一日考えてみて、これは恐らく一言で述べれば、「大切なもの」なのであろう。家族。夢。恋人。これらの大切なものが、認識可能な事物——即ち人間——に壊されることで、憎しみは発生する。つまり、憎しみとは、大切なものが奪われることによって生まれる、理性を賭した破壊活動である。

 では、愛とは、大切なものに対する理性を賭した保護活動、とでも言おうか。家族を想定してほしい。親は基本的に子供を愛する。そして、その愛は目を曇らせることも多くある。例えば子が自立した生計を成さず、親の財産を食い潰しているとする。客観的に考えれば、その子供はコストセンターであり、しかもそれは一切の相乗効果をもたらさないのであるから、捨て去るのが合理的な判断である。

そのように理性を見せる親も在る。しかし、そうでない親も在る。いつまでも無価値な子を放置して、ただ財産を分け与える。理性的な行為とは到底思えない。無価値な人間に資金を投じる必要など無い。それはただの浪費である。それを愛は招く。

 無論、恐らく親はそうすることそのものが己の存在意義になっていて、自身の利益になっている可能性も否定できないので、一概に愛がそれを招くとは言い難い。しかし、多かれ少なかれ、愛が影響しているであろうことに変わりはない。

 冒頭で「愛が憎しみの鏡像と定義すれば」などと乱暴に論を進めたのは、これがためである。憎しみが理性を奪うように、また愛も理性を食らう。故に、愛と憎しみとは、その実、同じなのである。ただ、鏡の彼方か此方か、座する位置が異なるだけで。

 どちらが此方でどちらが彼方か、それは人によるだろうね。

 

  • 愛の誕生:?

 スタミナが切れたので、甘味を補給してきた。難しいテーマになると、どうにも糖分の消費は早まる。

 では続けて、昨日と同様に、愛の誕生について。愛はどこから来るのか。

 

 スタミナだけでなく、集中力も切れてしまったようだ。いやはや、夜ふかしはどうにも性に合わない。

 続きはまた明日記したい。それでは。