まどどブログ

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2021.12.06(残116日) 愛について②/愛の芽吹きと恋との違いについて

2021.12.06

あと116日

 

 今日もしっかり眠い。眠い、眠い、それしか言えないのか。そう思う方もいるかもしれないが、眠いものは眠い。いつだって眠いのだ。

 ところで、エナジードリンクというものは素晴らしい文明の産物である。あれを摂取すれば、寿命と引き換えに長々しい集中力と情熱が息を吹き返す。まるで高校時代に戻ったかのようであった。何もせで果てる命ならば、寿命を悪魔に差し出して何の差支えがあろうか。いや、差支えはあるが、私はきっと不老不死になるので、そのようなことは問題外である。

 ああ、死にたくないものよ。

 

  • 愛の芽生え:存在こそ利益

 さて、昨日の続きである。愛はなぜ芽生えるのか。何も難しく考える必要がなかった。

 愛とは、大切なものに対する理性を賭した保護活動である。であれば、そもそも大切である、と思わせることが、愛そのものである。では、大切であると人が重宝するのは、一体如何なる故にか。

 以前詳しく述べたように、私は基本的に、人間は利己的な生物だと考えている。一見して他者に尽くしているような活動——例えば人権運動や環境保護活動——でも、自身のエクスタシイを得たいがための所業であると捉える。己にとって、何かしらの利益があり、それがそれに費やすものを上回らない限り、人間とは絶対に動かない。

 では、大切に思うとは何か。それはつまり、それが存在することによって自身へ何かしらの還元——例えば安らぎであったり、快楽であったり、はたまた知的好奇心であったり——が見られることによって発生する思いなのではなかろうか。自らに益を成さぬものなど、人間は必要としない。例えば愛用の煙草であったり、スピーカーであったり、益を成す、そういうものを、人は大切に思うのではなかろうか。

 そして、愛とは、理性すら注いでいるという点で、その結晶である。存在が益であるのは言うまでもなく、ただそこに在るだけでもはや自身を満たすもの。そういうものに愛を注ぐと私は思う。例えば恋人。合理的に考えれば、恋人へ費やす資金や時間というのは、その物質的リターンに見合わず大きい。それでも人は付き合う。なぜか。それは、その相手の笑顔、それそのものが、いちばん大きなリターンだから。子供とて、ペットとて、あるいはなんでも、きっとそういうものだろう。

 何がそう思わせるのか。それは知らない。人によるであろう。顔であったり、趣味であったり、言葉遣いであったり。あるいは匂いかもしれない。それは人によって異なる。それでも、愛とはそのようなものから若葉だつ。

 畢竟愛とは、利己の極地である。その極は、北極や南極と同じように、美しい。

 いや、矢張り憎しみとは鏡写しの双子である。憎しみは、徹底的に自身を疎外しているのだから。

 

  • 愛と恋:衝動たるや

 最後に、愛と恋の違いについて述べたい。恋愛、と呼ばれるように、愛と恋は混同されがちである。では、何が異なるか。

 恐らく、このように。恋とは、性的衝動である。その対象とセックスをしたい、その欲求を人間の脳を通して解釈することによって、何か相手と一緒にいたい、と感じてしまう。根源に在るのはセックスである。その一方で愛とは、その対象がそこに居るだけでもはや良い。それが己にとって最大の益なのだ。セックスが介在しようとしなかろうと、恐らく関係しない。子供やペットに欲情する人間は少ないであろう。そのような人間が居たとしても私は否定しないが、事実としてマイノリティである。愛とは、そういうものである。

 恋と愛と違う、とよく言われる。何が違うか。それは、セックスをしたいのか、ただ隣り合っていたいのか、それに尽きる。それを誰も教えないので、思い違いはこの世に多く生まれる。なんと非合理的なことであろうか。

 

2021.12.07追記:恋がセックスとは、少し乱暴であるようにも思う。恋焦がれるとは、必ずしもセックスしたくてたまらない、という意味ではなかろう。性的衝動と恋との関連は、多くにとって間違いなくあると考えるものの、それすべてによって説明されるものでもないだろう。これについては、もう少し考えても良いかもしれない。

 

 余談だが、私も勘違いしていた。もっとも、私は愛を恋と思い込んでいた部類であったが。そのせいで、もはや想い人に巡り合うことも叶わない。愛と恋がまぜこぜになって、混乱して、自分の中でも整理を付けることすら叶わないまま、終わってしまった。

 その遠因にゲイ界隈の風潮がある。肉体関係が先行しがちで、その内面には一切興味を持たない。私は、正直あまりセックスに飢えることのない、自身である程度処理できてしまう人間なので、この風潮が何のメリットにもならない。むしろ健全な愛を妨げるという点で、恐ろしく嫌いである。一方で、その潮流に何とか合わせようとした、愛らしい私も昔は在った。そして破綻した。

 恐らく私はこのまま独りだろう。それ自体に何か嘆くことはない。もとより自己で完結できる部類の男なのだ。けれど、たった一つ、彼ともう二度と会うことが出来ないのだけは、とても悲しい。結ばれたいなどとは思わない。私は醜いから。ただ、彼を見ていたかった。私は今更になって、このことに気づいたのだ。

 

 ただ、そこまで落胆することでもない。彼を忘れられぬのなら忘れなければ良いし、忘れられればまたそれで良い。彼の香を忘れさせてくれるほど、芳しい人が出てくれば良いなあ、とも思っている。俺は鼻が利くんでね。