2021.12.07
あと115日
今日も眠い。何日も何日も眠い。いや、そもそも、この短い人生において眠くなかった試しがない。特に冬は。
冬はつとめて、など、正気の沙汰とは思えない。春夏秋冬暁を覚えず、である。
こうも闇の進むと、如何にも書く気がしない。それでも書くのだが。
さはいえど、若干胃もたれ気味なので僅かな記述に留める。もうラーメンの美味しくない年齢になってしまった。
- 友人関係に関する二つの金言
友人関係。この世で最も重要で、最も複雑で、最も厄介なものの一つであろう。いつも思うが、「最も……一つである」という表現を見かけると混乱する。どっちやねん。英語の”one of the most“を訳したものであるのは認知しているものの、どうにも違和感は拭えない。それでも使ってしまう。
さて、私は友人関係について、二つの金言を持っている。私はどうにも優しく、また優柔不断な性格なので、他者に左右されてしまいがちである。それを避けるための、金言である。
- 「友だち百人」など出来はしない
『一年生になったら』という歌があるだろう。恐らく、多くの日本人が小学校で習うであろう、集団に対してどのような行動が求められるか、端的にまとめた素晴らしい訓示である。
この歌では、『友だち百人できるかな』とか、『百人で食べたいな』とか、そういう美辞麗句が並び立てられる。そして、私の親はこれを強く否定していた。
人間は多種多様なのであって、どうしようもなく合わない人間も居る。それを無視して、みんなと仲良くしましょう、などというのはあり得ない。仲良くしたい人間とは仲良くすれば良いし、そうでない人間と仲良くする必要はない。友だち百人など出来ない。
そうやって、あの歌を否定する姿を、私は朧気ながら覚えている。今では、言うまでもないことではあるが、幼い子供がああいう歌を真に受けて悲劇に見舞われるのを、親としては危惧していたのであろう。
ああ、しかし、成人しようとも「友だち百人」に疑いを持たない、そういう人間も居るな。
- コミュニティを離れても友人なのは、せいぜい三人
高校の卒業式。恩師は、こう言った。高校という狭い世界しか見たことのない、これから進むコミュニティがどのようなものかも知らない、そんな子供たちに。
いまは、ここに友人がそれなりに居ることだろう。しかし、卒業して、暫く経って、大学に馴染んで、それでも友人なのは数少ない。せいぜい三人である、と。そして、そう続ける。その三人は、恐らく人生で大切な友人になる。その友人を大切にしなさい。そう言っていた。
卒業の熱気に浮かれて何も聞かず、ただ騒いでいた私でも、この言葉だけは鮮明に覚えている。これが正しいのか、それとも私に該当しない部類の訓戒であるのかは、学生を辞めて暫く経なければ、わからないけれど。
今日はこれだけである。故にどう、などと言う論理の展開はしない。金言を紹介して終える。これらによって、私は友人との関係を自由に謳歌できる。これは何も自分勝手、という意味ではない。いや、ある意味では自分勝手であるかもしれない。何が言いたいか。
このような指標を持って人間と接する場合、大抵寄ってくる人間も同じような価値観を有している。それによって、相手も自分も友人関係に自由である、という暗黙の了解を形成できる。それは闊達で円滑でしょうもない交流を招く。
一つ思う。陰口を叩きながら継続するような友人関係に、いったい何のさいわいが有るというのか。無いだろう。何か別の利益を授けるわけでもないのなら、その友人関係は時間と費用の無駄である。気の合う者とだけ交流し、忌憚なくじゃれ合うのが、友人関係の在るべき姿ではなかろうか。