まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.08(残114日) 見たいものだけ見ることについて

2021.12.08

あと114日

 

 以前も述べたが、私という人間はどうにも嗅覚が鋭敏、というより他の五感がお粗末に過ぎるため嗅覚に優越性を付与しているようで、何もかも匂いで判断する。例えば記憶は基本的にそのときどきの匂いと関係していて、類似した匂いを察知することで思い出すし、人間についても、特殊な匂いを持っているのであればそれによって識別される。

 これで困るのは、稀に人の顔を覚えられないことである。あまりに芳しい匂いだと、そのイメージだけが先行して、仔細な視覚情報が失われるのだ。こういう人間は多くない——現状で一人だけ——であるが、それでも、そういう事象は存在する。その人の写真を見るたび、こんな顔だったか、などという新鮮な発見に見舞われる。幾度となく、その顔を見ているはずなのに。

 

  • 清いもの、穢れたもの

 見たいものだけ見る。見たくないものは見ない。どこかで、現代人を表現する言葉として、こんなものが取り上げられていたのを覚えている。優れた文明を謳歌し、綺麗な街並みを闊歩し、映える写真をパシャ、パシャと撮る。一方で、その背後に隠れた貧困、環境破壊、弱者差別などを一切視界に入れない。話題としても避ける。インターネットにおいても、それを表示させない。これが現代の病巣である、と。そんな趣旨だったような気がする。

 私はこれのどこが病巣なのか、一切理解できない。これは人間として善い行動である。人間は清いものだけ見るのが善い。穢れたものなど見てはならない。何故か。穢れは移るから。

 何も、これは難しい話でも、狂人的な考えでもない。ここでの「穢れ」とは、前時代的な、差別的意味の含有されたそれを言っているのではない。ネガティヴなもの、人間の心理状態を悪化させるもの、考えるにも憂鬱なもの、そういうものを指している。ネガティヴなものを見ると、心もネガティヴになる。そして、それはその人間の言動に反映される。すると、ますます世界はネガティヴに映る。さらに心はネガティヴになる。繰り返し。ネガティヴな世界が固定化される。それでは楽しくないであろう。楽しくない世界では、生きる意味に乏しい。故に、ネガティヴなもの、穢れを見るべきではない。

 では、「清い」もの、つまりポジティヴなものを見ると、どうなるか。上記の「ネガティヴ」を「ポジティヴ」に置き換えて貰えば良い。楽しい世界が実現する。楽しい世界は、生きていて豊かである。故に清いものだけを見つめるのが善い。

 

  • 人によって異なる浄穢

 ここで注意したいのは、清いものと穢れたものの認識は、絶対的な尺度が存在するのではなく、個々によって異なる、という点である。人によって何がポジティヴで何がネガティヴか、というのは変化する。一方が「清い」と思っていても、一方には「穢れ」と認識されるかもしれない。例えば虫好きと虫嫌いは相容れない。このように、清いものと穢れたものは異なる。

 肝要なのは、自身が穢れていると思うものを自ら進んで見ようとしない、ということである。虫であれば道端に這っているかもしれないが、例えば固定化されたものであれば見ずに済む。このようなものは避けるのが善い。人生を豊かにする。

 無論、自身の清さの犠牲となっている事物への敬意も、忘れてはならない。それによって清さはさらに色味を増し、人生はより豊かになる。

 

 なお、穢れを見ないことによって、互いにネガティヴを交差させない、ということも思い至ったものの、自然に目に入って拒否感を示し、互いにネガティヴを醸造する場合も考えられるので、それはまた別の次元の問題であるかもしれない。

 

  • 社会課題と「穢れ」

 さて、途中から論がすり替わっている、と感じる方もいるのではなかろうか。冒頭の「見たくないもの」とは社会課題であるのに対し、私の述べている「穢れ」は個人レベルでネガティヴなものを述べている、と。

 同じである。社会課題であろうと、個人の課題であろうと、ネガティヴな感情を抱くことに変わりない。そして、前者を解決すべきであるとして真摯に向き合う、つまり前者を「清いもの」として捉える人間とて在る。同じなのだ。故に、私の論は何も独立していない。

 

 ちなみに、私は飲み会を「穢れ」と捉えているが、多くの人間にとってはそうでないらしい。