まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.12(残110日) 作品の面白さについて

2021.12.12

あと110日

 

 枕カバーを交換したら、あまりに快適が過ぎて、日の高くなるまで寝過ごしてしまった。脳を休めているのだから、これでも良いのだろうか。

 

  • 作品は何故面白いか

 先日、私の作品があまりに面白みに欠けているな、という事実に気付いた。

 つまらないのである。なんというか、とかく読むに耐えない。自らが書いているうちは良い。自身の作品が面白いかどうかなど、創っているうちにはどうとも思わない。コーヒーでも優雅に飲みつつ、読み返すのが問題なのだ。ほんとうにつまらない。これほど心躍らないものをよくもまあ、数十時間かけて錬成したものだ。芳醇な苦みがドブ水にでもなったか、そんなことすら思った。思っていない。

 閲覧数が少ないとか、評価されていないとか、そんなことはどうでもいい。私が面白くないのである。面白くない作品をどうして書けようか。趣に欠けると一度思って仕舞えば、その作品に再び情趣が戻ることなどない。そんな作品が自らから出る。それは許されない。

 よく「読まれないからエタった」(ちなみに、「エタる」というのは、作品を永遠に未完で留めておくことを示すらしい。愚かしい行為である)なんて声を聴くが、なんて愚かなのであろう。表現とは、徹底的に利己的な行為である。誰かのためでもない。自身の現実逃避、そのために行われるのが表現である。現実を楽しんでいようとも、現実に絶望していようとも、その原則は変化しない。現実よりも優れた世界を生み出すのが表現なのだから。それで他者の評価を気にするか。理解に苦しむ。

 現に、このブログなど、誰も見ていない。それでも、私にとってこれが必要だから為している。ただそれだけである。無論、商業作家であれば、他者の評価がそのまま自身の生計になるので、この議論には当てはまらない。

 

 しかし。そもそも、なぜ私は作品を「つまらない」と断じたのであろうか。そもそも、「面白い」作品とは何であろうか。

 今日はそれについて考えたい。

 

  • 一、というより全、感情移入

 感情移入。これが作品を際立たせる。何でも良いが、自身の愛する作品について、何か一つでも思い出してみてほしい。私は『PSYCHO-PASS』を思い出す。そして、何が面白いのか、何に心動かされたのか、考えてみてほしい。

 感情移入である。槙島聖護の諦観と、快楽と、微細な感情の揺れ動き。常守朱の、法への隷属と、葛藤と、敬意。狡噛慎也の理性と憎悪。それに少なからず、私は自分の像を見出していた。だからこそ、作品の中に私は取り込まれてしまったのである。

 これが作品の作品たる由縁。我々が作品に取り込まれる由縁。感情移入である。

 これは論理ではない。恐らく、直感に近い。

 全知全能、無欠の神を主人公に据えないのは、恐らく、これによるものなのだ。全知全能で無欠であったなら、世界はおよそつまらないものであったろう。

 

  • 一、シームレスな展開

 そして、感情移入を成り立たせるために、作品には様々な要素が付与される。この中でも、私が取り分けて重要であると考えるのは、これである。

 シームレスな展開。自然な展開。これが欠けているものは、感情移入に乏しい。何故か。現実はシームレスだから。

 作品というのは、言うなれば、現実の擬態でもある。我々は僅かな時間、そこに現実を見出す。そして、現実とはシームレスである。例えば、隣の人間が突然、何の前触れもなく、英語を話し出すことはない。確実に、何かしらの因果関係があって、現実とは成り立つ。作品も、現実に錯覚させるためには、それに準ずる必要がある。

 無論、効果的に突飛なものがあっても良い。白馬の王子様が降ってくる。飼い犬が言葉を話す。大いに結構。しかし、それを必要のない場面で行うことは許されない。特に、論理の飛躍。会話で突然、まったく異なる話が生まれる。

 それはおとぎ話ではない。単に、切れ端である。

 

  • 一、その他、技術

 それ以外にも、感情移入を支える諸要素は多くある。筆力、語彙力、省筆、画力、彩色、影、表情、センス、などなど。それは練習あるのみである。そして、面白くなるような手法を身に着けなければならない。

 

 要は、感情移入である。

 感情移入こそ、作品を際立たせるもの、作品の要、作品の石碑である。

 たぶん。

 

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