まどどブログ

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2021.12.13(残109日) 銅像引き回しの刑と日本人について

2021.12.13

あと109日

 

 私は躁鬱なのであろうか。日によって気分の上がり下がりが異様である。昨日なぞ、あまりの興奮に、床に就いて後、二時間程度寝られずに過ごしてしまった。

 恐らく躁鬱ではない。たぶん、あまりに些細なことで簡単に体調が変化してしまう故であろう。精神そのものが変調を来しているのではなく、恐らく、身体の具合がそのまま精神へと反映されてしまうだけなのだ。

 いや、これも躁鬱の一種なのであろうか?

 

  • 銅像引き回しの刑というブーム

 昨今、欧米では銅像を引き倒すのがブームとして存在しているらしい。最近では、バンクシーがその遊戯を支援しているとか。日本では考えられないことである。例えば明らかな朝敵、平将門を考えてみよう。確かに明治政府はそれの影響力を貶めようと試みたらしいが、現に将門塚は残っており、ビルの密林・大手町においても崇敬の念を以て丁重に扱われている。都市計画において考慮すべき要素が増えているというのに、誰も将門塚を取り潰そうとはしない。

 銅像に限ってみよう。西郷隆盛楠木正成大村益次郎勝海舟大隈重信福澤諭吉加藤清正。私には、これらの英雄が引き倒される光景を、どうにも想像できない。価値観の二分するような場面に、彼らが居たとは考えにくい。どれもかれも、あくまで歴史という連綿と続く舞台の一役者であって、引き倒したいという欲求に駆られるとは、どうにも思えないのだ。そもそも、西郷隆盛なぞは朝敵である。いくら明治天皇の寵臣であったからと言って、銅像にしているのは、些か友愛に過ぎる。

 

  • 日本:分断の起こり難い土地

 では、我々と欧米人、何が違うのか。何故、少なくとも現代の我々は銅像を引き回さず、欧米人はしてしまうのか。それは、そもそも銅像の背景にある、夥しい諸要素が絡み合っているように思われる。

 では、何が異なるか。

 真っ先に思いつくことと言えば、日本は何者かに陵辱された経験がない。八百万の神が守っているからであろうか、日本人は何かに屈辱的な支配を経験したことがないのだ。GHQとて、皇室を残し、公職追放を部分的に解除したのであるから、生ぬるい。日本がアフリカにならずに済んだのは、もはや奇跡である。

 そして、驚異的な独裁の経験もない。天皇という侵すことのできない人物が在ったからであろうか、そもそも日本人は全責任を負いたくない性質なのか、何故かは知る由もないが、とにかく、一人に権力を握られる、という独裁の経験がない。

 痛ましい差別の歴史もあやふやにされている。被差別民の圧倒的にマイノリティであるが故であろう。日本という国は、大和民族が98%を占めるらしい。しかも、日本人は陰険で、徹底的に差別した対象が増えてきたら同化する。アイヌ琉球人、在日コリアン。過去には恐ろしいほどの被差別対象であった彼ら。我々の世代で、敢えて差別しよう、そんな者は稀であろう。由緒正しき家柄において、未だにそういう意識が消え去らないと耳にしたことはある。しかし、大半は平民である。耳にしたことはあっても、気に留める者は少ないであろう。故に、目立たない。

 この三点は特筆すべき事項である。島国だから、では片付けられない。同じ島国でも、オセアニア諸国は悉く支配され、固有原語の多くを喪失している。独立を保ち、かつ徹底した独裁も無く、差別の禍根も浄化されている。こんな国が他にあるであろうか。かのヨーロッパでさえ、例えばベルギーでさえ、レオポルド二世の銅像が焼かれてしまったのである。奇跡というより、不可思議である。

 そして、この三点が何を指し示すか。分断が発生し難いのである。陵辱の歴史があれば、その対象を憎悪するであろう。圧倒的な独裁者が在れば、それに鬱憤をぶつけることも可能である。あるいは、差別が表面化していれば、民族での対立を招く。

 日本にはそれがない。すべて曖昧にされて終わっている。分断の発生が望めない。以前であれば、労使対立が一つのムーヴメントであったようだが、それすらも共産主義への敬遠という結果を招いて失敗している。そもそも、分断を望まない民族性なのかもしれない。よく「こんな政治に怒らないのは愚かだ」などと筋を青くして書き込んでいる人間を見かけるが、たぶん日本人にはそういうのが向いていない。かもしれない。

 

 上記では、分断について述べた。

 そして、もう一つ述べたい。怨霊について。

 

  • 日本人の根本:御霊、そして怨霊

 怨霊。日本人であれば、一度は聴いたことのある言葉であろう。有名な怨霊と言えば、菅原道真平将門崇徳院であろうか。その他にも、井上内親王であるとか、早良親王であるとか、後鳥羽院であるとか、怨霊というものは数多く存在する。実際に怨霊が存在するのかどうか、そんなことは知らないし、恐らく存在しないのであろう。自然災害の多い日本であるから、故人と結びつけるのが容易であったというのもあるだろう。

 それとは別に、菅原道真の死後、あまりに多くの要人が亡くなっている。首塚に手を付けて、人が死んでいる。そんな、摩訶不思議な現象が多く見られるのも確かである。日本人は、それを怨霊と恐れ、祀ってきた。

 つまり、例え政敵であろうと、故人にも魂はあって、それを丁重に扱わなければ怨霊として災いをもたらす、という信仰を、ごく当たり前のように受け入れてきたのだ。我々とて、菩提を弔うのだから、その一助を為している。その延長線に、北野天満宮や将門塚は存在している。

 銅像にも同じことが言えるのではなかろうか。銅像を引き倒すことは御霊への冒涜である。そして、それは怨霊を生む。怨霊は我々に災いを招く。故に、引き倒せない。日本人が温和であるとか、呆けているとか、そういう議論ではない。引き倒さないのではなく、引き倒せないのだ。仮に撤去するにしても、仰々しい儀式を必ず経るであろう。御霊を弔うために。

 欧米にその感覚はない。欧米に在るのは主、ただそれのみである。主の他に、何者が災いを起こそうか。銅像を引き倒すことに何も意味はない。すべてを決定するのは主だから。故に、欧米では銅像引き回しブームが熱を帯びているのではなかろうか。

 日本と欧米との感覚が異なるのは、怨霊にある。私はそんな気がしている。

 

 そもそも歴史を拒絶するのは人間として理性的な判断と思えないのだが、それは別の話。

 また、個人的に、私はリー将軍が怨霊にならないか、そればかり気がかりである。彼とて、アメリカの未来を本気で憂いていたはずである。それに対してあの仕打ちとは、日本人であれば間違いなく怨霊になってしまうであろう。

 もしかしたら、世界で相次ぐ憎悪の渦は、もしかして彼の所業かもしれない。リッチモンドに「南軍神社」を創建するほかない。