まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.16(残106日) 作品の劣化再生産について

2021.12.16

あと106日

 

 気づけば師走も折り返し。一年とは、早いものである。

 何も今年だから早い、とか、コロナ禍だから早い、とか、そういうものでもないのかもしれない。歳を重ねれば重ねるごとに、時間というものは加速度を増していくらしい。その過程に私もあるのかもしれない。

 あと、単純に起きるのが遅い。

 

  • 作品は劣化再生産するか

 SNSとは稀に興味深い、というより、素朴な議論というものを投げかけるものらしい。先日、「読み手の劣化によって、本というものは劣化再生産されている、価値は低減している」という問題提起が、それなりに批判されていて、面白いなあと思った。

 何が面白いか。疑義自体。それは後述する。さらに、それに対する反論。批判の大半が、「本は一人読まれようが百万人に読まれようが価値に変化などない」とか、「売れている本があるからこそ、そうでもない本も存続できる」とか、不思議と論点から外れたものであったことである。

 そもそも、「価値」という言葉を持ち出したのが良くない。何を「価値」としているかによって、議論のすれ違いが発生しているようにも思える。ただ、それを指摘しても詮無きことなので、ここで私は「価値」を「質」と仮定する。

 ところで、後者の批判は論外である。なぜここで「売れている」という文脈を何の恥じらいもなく持ち出せるであろうか。誰も「売れている」という話をしていない。後者の批判ですら、直接的に「売れている」という言葉を出していない。それでも、その言葉を出す。しかも、「そうでもない作品も生き残れる」など、作品に対して無礼である。烏滸がましいとは思わないのか。恥ずかしいとか、そういう感情もないのかもしれない。それとも、商業主義の奴隷なのであろうか。それならそれで良い。売れている作品だけ読んでいれば良い。資本主義社会においては、それもまた一つの生き方なのであろう。あ、烏滸がましいって、もしかして「をこ」から来ているのか。

 脱線に過ぎた。前者の批判について考えてみよう。本は一人に読まれようが百万人に読まれようが、それ自体の質は変化しない。しかし、そもそも、百万人に読まれるには、流通すること、即ち売れることが必要である。そして、売れるためには、より多くの読者に受け入れられなければならない。売れるか否かは、読者に委ねられる。その読者の資質を、疑問視しているのはなかろうか。

 つまり、問題の本質は「「売れる」という基準が劣化しているので、「売れる」本、はてに本のデファクト・スタンダードが徐々に劣化しているのではないか」というものであるのに、反論は「売れる」という大前提を無条件に受け入れて「とある本を想定したときに、売れることによって価値の変動など無い」としている。全体的な質の低下という潮流を危惧しているというのに、本そのものの価値、という一時点によって批判を重ねている。

 簡単な例で言えば、なろう系を想定したときに、前者の意識では「なろう系なんて知性の感じられない小説が売れるのはけしからん、過去の文学と比較して鑑みれば、劣化再生産が進んでいるのでは」ということであるのに対し、後者の意識では「なろうで更新されていたときも、書籍として売れているときも、価値なんて変わりませんよ」と言っているに等しい。前者がどうとか、後者がどうとか、そういう議論の前に、会話として成立していない。これぞSNSの極地、エスプレッソである。

 SNSの嘆かわしい部分は、これである。せっかく、考えるに値する貴重な意見を提示しているというのに、論点の外れた狂人たちにかき消されて終わる。そもそも土俵が異なるのだ。分け隔てなく全人類に開かれているからこのような問題も発生すると考えているのだが、果たして。

 

 それはさておき。投げかけられた問について考えてみよう。本に限らず、作品は劣化再生産するのであろうか。これを考えるには、古典を踏まえなければならない。

 

  • 古典:教養の集積地

 少しでも古典を読んだことのある人間であれば、それが我々にとって、文法に留まらない難解さを持ち合わせていることに気づくであろう。東西問わず、古典というものは複雑な迷路のようなもので、我々は注釈なしに原典に当たろうとすれば、惑い、途方もない歳月を経て、結局その迷路に閉じ込められる。

 では、古典を迷路たらしめているものは何か。教養である。そもそも、古典というものは基本的に、どの国においても、社会的地位の高い者を対象として書かれている。読者はある程度の学を修めていることが求められるし、そもそもそれを前提としている。故に、何の説明もなく、突然書物を踏まえた表現が出てくることも往々にしてある。

 例えば、ミルトンの『失楽園』では、その題材たる聖書のみならず、キケローなど、あらゆる書物を背景としていることが伺える(らしい。私は無知なのである)。また、『源氏物語』では、当然のように和歌集や仏典、そして漢詩など、おどろおどろしい教養に窒息させられることとなる。シェイクスピアですら、何かしらの元ネタが散りばめられているらしい。私は殆ど感知できなかった。つまり、古典は、どんな作品であっても、何かしらの教養を含有する。

 

  • 教養:一言で宇宙を生むもの

 では、これがどのような効果をもたらすか。それは、教養によって説明される部分は省略できるという点であろう。例えば、こんなものはどうであろう。恋物語を記した漫画で、たまたま男主人公の読んでいた教科書に、これが示されていた。

「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」

 何も知らない者は、ああ、悲劇的な終わり方を迎えるんだろうな、くらいにしか思えないだろう。しかし、これの背景を知っている者であれば、どうか。親に仲を引き裂かれ、相手は悲しみのあまり死んでしまい、そして主人公はそれが原因か知らず、極悪非道に堕ちていく。さらに言えば、どちらも高貴な身分であるものの、主人公は親が何かしらの問題を起こして落ちぶれているさなか。本人もその将来の雲行きが怪しい。などなど。その物語は、たった一首の和歌によって、不思議なまでに重厚さを増す。

 教養とは、このような効果をもたらす。書かずとも、世界を叙述する。

 

  • 現代作品:教養の消失

 逆に考えれば、教養を盛り込まない作品とは、それだけ、その世界の説明に記述を要する。たった一句だけ、『人づてならで』とだけ書けば良かったものを、説明しなければならない。それに費やした文字数だけ、他のものが削られる。あるいは、もはやその説明をしていられないので、省略することもあろう。作品とは媒体であって、媒体には限りがある。そうして、徐々に薄くなっていく。

 つまり、教養の消失とは、その分、作品の世界が狭まることにも繋がる。暗示できた世界。それが失われるのだから。

 そして、現代において、その教養の効果は極めて薄れている。それは我々のような平民にも広く売れるためである。作品を教養で彩ったところで、知らなければ楽しめない。いちいち調べさせるような作品は、少なくとも売れない。故に、教養は薄められている。

 無論、知らなくとも楽しめるが、知っていればさらに深く味わうことの出来る、そんな作品も多く在る。しかし、そうでない作品もまた、存在する。知性をかなぐり捨てたような、インスタントなものである。消費されて、終わり。単なる娯楽物。そういうものの世界は狭いと言わざるを得ない。そうであろう。なぜ伯爵や男爵は居て、大納言や頭中将はいないのか?

 そして、教養のない作品がいずれ当たり前になれば、作品の世界は矮小なものになっていくであろう。それは、もしかしたら、劣化再生産、なのかもしれない。

 

 ちなみに、教養を知る必要など無い。調べればよいではないか。こんな反論を思いついたのならば、愚かである。Googleはその実、万能でない。上記の例は百人一首なので、恐らく調べれば簡単にたどり着くことが出来る。しかし、『いつ終わるかなんてわからない、それでも君の一言を』なんて台詞があったとしたら? これは調べても出てこまい。匂宮の御歌である。教養とは、決してインターネットで置換できないものを指す。

 

  • 教養は引き継がれる

 しかし、私はそれほど悲観的でもない。確かに、総合的に現代の本を見れば、特に最近流行りのなろう系までも視野に入れれば、全体的な作品の質というものは、教養の失われた分だけ、下がっているのかもしれない。しかし、それが即ち後世の作品までどんどん陳腐になっていくということを意味するわけでもない。作品はすべてがすべて、後世に引き継がれるわけではないから。

 考えてもみたい。現代に伝わっているものが、果たして過去に創作された作品のすべてであろうか? 決してそんなはずあるまい。恐らく、今に伝わっていないような作品もあろう。優れた作品——ここでの「優れた」とは「後世がどうしても伝えたいと思った」という意味である——だけが、遺っているのではなかろうか。

 このことを鑑みれば、現代の作品も、きっと後世からは、教養に溢れた作品ばかりに見えるであろう。無論、現実はそうでもない。しかし、真に優れた作品は、単に消費されて、快楽をもたらして、おしまい、ではない。読者の心に深く遺り続ける。その読者の中には、やがて著名となるものとあろう。著名でなくとも良い。そういう、心奪われた読者が、どんな社会になろうとも、もはや恋のように、必死に作品を護持し、誇示し続ける。その伝わった書物を読んだ後世が、また心を奪われる。そして、作品の継承は、留まること無く続く。

 その連鎖によって、きっと『源氏物語』は、そして数多の古典は、受け継がれてきたに違いない。私はそう信じている。

 

 ちなみに、私は現代の消失が悪だと考えていない。平民でも手軽に文学を楽しめるようになった、それは喜ばしいことである。

 しかし、教養を捨てるような作品は嫌いである。憎んでいると言っても良い。例えば、なろう系とかね。