まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.20(残102日) 根源への渇望について

2021.12.20

あと102日

 

 私は自殺も反出生主義も否定しない。というか、好きにすれば良いと思う。自身の生を否定するのは、個々の自由である。それが個人の意思によって到達したものであれば、それを否定する資格など無いし、そもそも、それに関わろうと、それが私のメリットになるとは到底思えない。

 私が軽蔑するのは、こういう人間を、逃げだとか甘えだとか、そういう口調で否定する輩である。何故か。当事者の気持ちを考えろとか、そういう傲慢な類のそれではない。他者のことなど人間は知覚できない以上、他者に一切干渉しないのが理性的な判断と言えよう。

 簡単なことで、その論理の軽薄さが醜い。そのような論調とは、詰まるところ、生に対する疑義、いや疑義と言わずとも、何故私はここに在るのか、そういう知的好奇心すら起こったことがありません、そういうカミングアウトに他ならない。

 そうであろう。生きることは当然であると考えているので、それを否定することがそのノーマルからの逃避に映る。では、そのノーマルは、なぜノーマルとして君臨しているのか。それを考えていない。考えていたとしても、自己が頑張って生きているから。人間というものは生きなければならないから。あさましい。生きること、その根源に関して、何一つとして答えていない。そのような人間こそ、生から逃げている。

 無論、それも正しいとは思っている。そもそも生物とは、生きて、種を殖やす物体である。それを達成することは、確かに自然の所業である。しかし、思考停止であることに変わりはない。その分際で、他者の思考を貶める。

 その醜さは、耐え難い悪臭を放つ。穢れである。故に私は軽蔑する。

 

  • 根源への渇望

 折角の機会である。前にも述べたかもしれないが、ここで今一度、私の基盤たる欲求について宣言しておきたい。

 私は、「なぜ?」を愛する。なぜ私は在るのか。なぜ私は彼を愛するのか。なぜ私は音楽を愛するのか。なぜ。なぜ。なぜ。私は世界を、「なぜ」によって視ている。

 何故か。二つある。一つに、先天的なもの。記憶の限りでは、根源に対する飢えがあるらしい。これは文字通りなので、省筆する。

 そして、私は鈍感だから。私の本能というのは、果たしてほんとうに動物であるのか、疑わしい程度に、死んでいる。人間が何を求めているのか、この行為が何を意味するのか、それを思考なしに解することが不得手なのである。つまり、極端に不器用なのだ。

 では、本能が機能しない場合に、人間は何を活かすべきか。理性である。理性によって、世界を構築する。それは即ち、すべてに疑問を抱くこと。因果を求めることによって、適切な行為を導き出す。それが私の採るべき処世術なのであろう。そのように考えているが故に、私は根源を追求する。

 

 私はこのように考えている。故に、生を無条件に受け入れることも出来ない。死を憎むように、生においても馴れ合うこと無く、闘いを挑まなければならない。

 

 余談だが、このように豪語しつつも、すべてに「なぜ?」を抱くまでには、残念ながら至っていない。私の能力の問題である。無意識に受容してしまう、そのような事象も少なからず存在している。これを意識しなければならない。