いつからだろうか、私の世界が色を失ったのは。
比喩などではない。いや、比喩と呼ぶのかもしれない。一般には。それでも、私にとっては比喩ではない。私の視界に、色はない。モノクロだって、色である。そうではない。透明である。何もかも透明に思えるようになってしまった。
昔は、鮮やかな色につい心を奪われたものである。駅の看板。夜空に浮かぶ星々。夏の盛る木々。なんてことはない色でも、私の目は惹かれていった。今はもはやそれがない。何を見ようとも、すべて透明である。視覚情報としての色彩は脳に入ってきているはずなのに、それはもはや、昔のような色としての形を成していない。何を思うこともない。ただの識別信号でしかない。そこに心は入っていかない。故に、透明。水のように、という表現も的確ではない。ただ、色を失っている。
私が大人になってしまったからなのであろうか。いや、そうではない。私の精神は、周囲から取り残されたままである。周囲が自らの境遇を諦め、受け入れ、色を失っていくというのに、私はまだ、そうしていられない。そう、今思い出した。友人たちも、いつの間にか色を失っていた。
あれほど愛したゲームですらも、もはや単なる作業に毛が生えたもの、そのように感じられてならない。彼らもまた、透明である。この世が透明であるように。
鬱病であろうか。最近まではそう思っていた。けれど、どうにも違うようであった。何故か。音楽だけは、色を残しているから。音楽だけは、私に色を見せてくれる。かつて見た駅の看板の、星々の、木々の、儚く消えた彼らの色を、音楽の中で、私は見ている。ほんとうである。私は見ているのだ。私だけの秘密である。この景色は、誰にも見せられないから。
それを何とか遺したい。私はそう思いつつ、表現に手を出した。でも、どうにもダメなようだ。透明に見えてしまう。まだ死ぬわけにはいかない。いかないから、私は表現を続けるであろう。それでも、色を得るかは、わからない。
音楽すらも色を失ったら、私は、一体どうなってしまうんだろうか。恐らく、もう答えは出ている。あまりに自然で、残酷な答えが。
それが怖くて、私は世界から目を反らす。音楽の色を、奪い続ける。
彼が隣にいたなら、きっともう少し世界の色は残っていたんだろう。しかし現に、彼はいない。残念なことである。