まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.25(残97日) 料理について

2021.12.25

あと97日

 

 ついにクリスマスである。結局のところ、私に奇跡なんて起こりはしなかったようだ。もう彼と会うことなどないのであろう。事実として、それが浮かび上がってくる。流石に、ここ数日は絶望に沈んでいた。死に至る病とは、きっとこれのことを言うのであろう。ほんとうに、生きる気力というものが失われるのである。

 そして、周囲が恋人と仲睦まじい日を過ごしているという現実が、余計に私を追い詰める。二十五歳までにパートナーに出会わなければ、人間というのは孤独らしい。私は恐らく孤独である。人と過ごすのは苦手なので、これで構わないのかもしれない。しかし、やはり、人生で一度くらいは愛されてみたい、などとも思ってしまうのである。

 ただ、どうにも積極的にパートナーを探そうという気にもならない。何故か。面倒だから。誰かに愛されたいが、愛を求めて彷徨うのは面倒である。時間が勿体ない。それに、私は妥協できる人間ではない。少なくとも、相手に知性を感じられなければ難しい。そして、そのような人種とは決して多くない。まあ、こんなんだから、愛されずとも自業自得である。

 

 そういえば、一つばかり、誓いを立てた。

 女々しくあってはならない。私は女々しく物事を考えがちである。それではいけない。男は雄々しくなければ。どのようなことがあろうとも、動ぜず、桜島のようにどっしりと構えているのが男児である。たかだか一人の人間との縁が切れたからといってメソメソしているのは、あまりに女々しい。男として生まれたからには、男でなければならない。そして、男であれば、活力というものは自ずと慕ってくる。

 女々しく在るな。男たれ。これが私の生きる道である。

 

  • 食というコスト

 食事。それは純然たるコストである。何故か。生活に欠かせないものであるから。これが必要でなければ、趣味の領域、快楽の領域であっただろう。しかし、我々は食事を採らなければ死ぬ。食事からは避けられない。どのような人間でも、食事は必要不可欠である。故に、コストである。

 

  • 料理は最小限に

 そして、以前も述べたように、コストというのは減らすのが望ましい。これによって、他の趣味——人間のみが享受できる特別な活動——に資金を費やすことが出来る。故に、食事というものは、時間、料金、ともに最低限でなければならない。それによって、私の効用は最大化される。

 料理を趣味にする人間が居るという。否定はしない。それもそれで趣味であり、効用を最大化しているのであろう。しかし、私はそうではない。栄養に偏りさえ生じなければ、料理など最小限で良い。炭水化物、肉、野菜。これをバランス良く採り、かつ胃腸に負担をかけず、味もそれなりのものであれば、毎日同じものでも構わない。現に、私は今でさえ、それに近い食生活を送っている。饂飩と蕎麦は最強の食べ物である。彼らによって浮いた時間を、私は物思いに充てる。何ならカップラーメンも好きである。直ぐに完成するし美味しい。

 

  • 美味しいものは外食で

 ここで、一つの反論が予想される。それでは飽きてしまうではないか。生活に彩りがないではないか。まず、私は基本的に飽きない。美味しいものはずっと美味しい。少しの間を空ければ、飽きることなどない。これは神が私に与えた特性である。感謝しなければ。

 そして、生活の彩りは、外食で補えば良い。そもそも外食とは、料理の外注化である。であれば、美食も外注した方が良い。例えばラーメン。家で作るとそれなりの手間が必要である。故に外注する。例えばフォー。家でそもそも食べようと思わないであろう。故に外注する。例えば饂飩であっても、外で作られたものは何故か美味しいし、ヴァリュエーションも豊富である。故に、外注する。

 これが外食。外食とは、このように使用しなければならない。時間と味を金で買うのである。

 

 問題は、資金の問題で、栄養の充足という目的を達成できない場合である。まあ、そのときはそのときで考えれば良いか。