2021.12.27
あと95日
年の瀬、という感じのする世情である。雪が至るところで降っているらしい。そして寒い。なんという寒さか。冬将軍自ら、我々に別れの挨拶を見せていると言わんばかりである。これこそ冬である。ちなみに、冬は夜でなければならない、と個人的には考えている。
- 年越しという儀式
年越し。我々は何を思うこともなく、それを受け入れる。メディアや街々は来たるべき新年をもてはやす。我々も、大掃除、忘年会、一年の総括、そして新年の抱負などと、ゆく年くる年に想いを馳せる。
しかし、である。そもそも、年というのは、人間の設定した概念に過ぎない。時間というのは連綿とした繋がりであり、それを恣意的な枠組にとって区切っているというのが、年である。我々はそれを、あたかも地球が我々に与えたものであるかのように、享受する。
つまり、年越しというのは、人間の内面、人間の都合によって発生したものでしかない。きっと動物たちにとって、大晦日も元日も、いつもと何一つ変わらない日なのであろう。それを我々は有り難がって、なんやかんやと祭り上げる。
儀式なのである、これは。我々が、心を改めるための、とめどなく流れる時間に区切りを設定して、安心するための。そのために、我々は一年という神を祀る。
- 年越しの意義とは何か?
年越しとは、即ち、儀式である。いや、儀式でなければならない。一年という神を設定し、それを意図的に祀っているのだから。故に、徹底して儀式でなければならない。
では、どのような儀式であるべきか。改まって宣言する必要もないかもしれない。しかし、こればかりは自戒のために、言わなければならない。一年の穢れを祓い落とす儀式であるべきである。
皆、当然のように行っていること。大掃除、総括、忘年会。それはつまり、一年の穢れとの決別の儀式である。汚れを落とし、穢れを整理し、忘れる。儀式を皆、意識せずとも行っている。先人たちの年越しという儀式への対峙が、我々にも現れている。
そう、穢れを落とさなければならない。神社に行くのもよいであろう。煙草で心機一転、なんてのも良いかもしれない。書き初めならぬ書き納め。写経。何でも良い。とにかく、穢れを祓い落とすのである。
では、穢れとは何か。それは人によるであろう。心に溜まっている、黒いもの。それが穢れである。例えば、恋患いであるとか。
だから、自戒なのだ。いや、自戒であった、であろう。私はもう、儀式を済ませてある。