まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2021.12.28(残94日) 「どうぶつの森」について

2021.12.28

あと94日

 

 腹が痛い。痛いというより、ひたすら、ゆるい。なんなんだ、この弛みっぷりは。どうにも果物と牛乳との相性が最悪らしい。大腸を叱りつけたいほどである。

 

 今日は備忘録である。

 どうぶつの森。もはや高齢層を除き、知らない者などいないであろう。国民的ゲームである。この私も例に漏れず、そのファンである。

 私の記憶というのは最初期からゲームが付き纏っていて、言葉を話すよりも前にプレイしていたと、親から聞かされていた。当然、記憶に先行したゲームも多く在る。その一つが、「どうぶつの森」である。確か「+」であったか。おやしろの記憶があるので、「+」であろう。それ以降「おいでよ」「とびだせ」「街へ行こうよ」「あつまれ」と、順を追ってプレイした記憶がある。「e+」は恐らくすっ飛ばした。

 そして、新作に触れるたび、私の心は離れていった。

 無論、精神的な成長が見られたというのもあるだろう。それに、もはや言葉の前にゲームがあった私である。ゲームそのものへの飽きが同世代に比べて比較的早く訪れたのも事実である。しかし、それだけではない。「どうぶつの森」の産業志向と、その寂しさに、耐えられなくなってしまったのだ。

 

 私の記憶の限りで、「+」は自然豊かな村がテーマであったように思える。デパートや博物館など、ハコモノは大きく存在していたものの、基調としては緑に溢れた静かな場所であり、その中で自身の世界を分化する。それが「どうぶつの森」であった。幼いながら、どうにもコンクリートアスファルトの街を愛せなかった私は、その奥深さ、新鮮さに心奪われた。それに、所詮はゲーム。兄弟姉妹も親も存在しない。キャラクターは彩りを添える程度の作用しかない。ただ、自分だけの世界が、そこにはあった。

 即ち、私にとって「どうぶつの森」とは、現実との隔絶であり、本来在るべき安寧そのものであった。誰も居ない世界で、誰に迷惑を掛けることもなく、ただ穏やかに、思うがままの非現実を醸成させる。

 カントリー調でひたすら統一した記憶が微かに残っている。また、地下か何かをハニワ部屋にして、狂ったようにその音色を奏でていたような気もする。外に出てみれば、豊かに木々が控えている。間違いなく、あれは静かな非現実である。

 それが私にとっての「どうぶつの森」である。

 

 無論、シリーズにおいて、一貫してその方向性は変化していない。いや、大衆にとっては変化していない。私にとっては、変質であった。新作になればなるほど、そこに文明の息吹が加わっていくのを、寂しく見守っていた。「街もり」でその特徴は顕著になった。仕方あるまい、シリーズで同じものを創っていればマンネリ化する一方であるし、大衆は矢張り、ハイカラなものを求めているのであろう。しかし、私の「どうぶつの森」として受け入れるのは困難であった。

 そして、「あつ森」が発売された。無人島を開化する。SNSによって、その方向性はより強化された。そこらに溢れる新興住宅地のような光景が、世の中を席巻する。新興住宅は無臭である。あの無臭に酷似したものが、「あつ森」の正しい遊び方であると言う。これは何か。産業革命である。何故、敢えて非現実の安寧を、現実に近しいものへと仕立てなければならないのか。

 産業革命を否定するつもりではない。私とて、産業の蜜を存分に吸って生きている。ただ、私は敢えて、私の手で安寧を壊そう、などと、思わないだけである。道路が通るのは喜ばしい。それで便利になる。それでも、倒される草木を思えば、胸が苦しくなる。それを、自らの手によって執行するなど、とても。

 

  • 「あつ森」と私

 このような偏屈者であるから、どうにも、私は「あつ森」を進める気にならない。これ以上進めてしまうのが怖いのである。最初期の、やっと商店がオープンしたところで、止めている。

 無論、「どうぶつの森」は好きである。徐々に進めていこうとは思っている。しかし、かつての面影を留めておく程度にしておこうと思う。新興住宅地を生成するのは、少なくとも避けたい。

 

 ちなみに、カギカッコに特段の意味はない。読みやすくするためである。